− 福祉ショップ「手作りの店」の開業は1984年ということですから、もう27年になる。 遠藤 はい。それまで障害者は家族の支えで生活するか、または入所施設の生活で、働く場がなく、障害者の生きがいづくりのためにも働く場はなんとしても必要でした。 やがて、地域で働く場として鎌倉に数ヵ所の作業所ができました。手作り品を作っているところが多かったようですが、作った物を売らなければなりません。 − 販路づくりですね。 遠藤 はい。ですが一般のお店ではなかなか扱ってもらえない。バザーなどの販売ではたかが知れていますしね。また、店を持つことは、障害者がつくる製品を社会に知ってもらう場になり、障害者に対する理解もすすみます。そこで常設の店をもとうとなったのです。 実はその頃、私は「全国障害者と歩む兄弟姉妹の会」の会長をやっていたんです。この会でもアンテナショップの開設を検討していて、両者の考えが一致、そこで会の援助で鎌倉に店をオープンし10年間実験してみようと始めました。 − ボランティアグループとしたのは。 遠藤 従業員を雇うお金もないし、その頃私も50歳、勤めており忙しくてできません。私自身は二足のわらじで休日に手伝い、運営はボランティア中心としました。 − 10年間の実験結果は。 遠藤 ボランティアだけで定休日以外一日も休まず、地域の方々の協力もいただけるようになり、お客様も増え、相応の実績も上がった。そこで、これからもボランティアで続けられる自信がつき独立したわけです。
− 扱う商品も多種多様ですね。 遠藤 そうなんです。何が何でも売る方針でいますから(笑)。この店で売りにくいものは通販や他の協力店に委託します。福祉製品の販路開拓、拡大が我々の課題ですから。 フェアトレード推進団体が輸入したインド、ネパール、ケニア、モロッコ、エチオピアなどの製品も扱っています。 でも、「できた物を売る」では限界があり、今は「売れる商品を開発する」ことに力を入れています。 − 売れ筋は? 遠藤 観光地なので、観光みやげが売れますね。背に「鎌倉」や「鎌倉十橋」を書いたTシャツが外国人に人気がありますし、江ノ電グッズ(石けんや皿など)も売れますね。今、東北3県の被災地支援や姉妹都市上田市のグッズも販売しています。 出張販売やバザーもやっています。要請があれば県外にも出かけます。地域の方々に向けて毎週土曜日に朝市を開いて無農薬野菜を販売していますが、これはあっという間に売れてしまいますね。 − ところで佐助の方では結の技市2011を開催中ですね。 遠藤 銭洗い弁天に行く道の路地で、10月、11月の土、日、祭日(11時〜16時)に、各地の福祉団体が出展し、作品の販売や手作り体験ワークショップを行っています。また、コミュニティマーケットとして地域の協力を得てリサイクル、野菜などを販売してきましたが、喜ばれていますよ。 − これからの展開は? 遠藤 福祉ショップにはすぐれた商品がいろいろ販売されているのですが、一般消費者になかなか伝わらない。 福祉ショップは県内に100以上あると推測されるのにインターネットで検索しても出ないし、電話帳にも載っていない。そこで、ぜひガイドブックをつくりたいのです。 また、11月5日には東京で全国福祉ショップネットワークにより、情報交換会、シンポジウム、商談会などを開催しました。これからは市・県域を超えたネットワークづくりが不可欠です。 私も77歳になりましたが、障害者の社会参加のためにこれからも力を注いでまいりたいと思っています。
− 螺鈿(らでん)や蒔絵とはどういうものなのか。そのあたりから教えて下さい。 万福 鮑貝、夜光貝、蝶貝など貝殻の内側、虹色の光沢をもった部分を薄くスライスし、さまざまな文様に切って漆器や木地にはめ込んだり、接着させ装飾していくのですが、何度も漆を塗り重ね、研ぎ出してゆく、非常に手間のかかる仕事です。螺鈿の螺は貝、鈿はちりばめるという意味です。奈良時代から発達した日本の伝統工芸なんです。 蒔絵というのは、器物に金粉、銀粉、切り金、貝などを用い図柄を表すもので、螺鈿を平面に仕上げる研ぎ出し蒔絵や平蒔絵、高蒔絵、肉合蒔絵などがあります。 ですから、作品によっては工程数は200以上、制作期間も3年に及ぶものもありますよ。 − 薄くすり磨いた貝をさらに花びらなど一枚、一枚切ってゆくんですね。 万福 厚さは0・2ミリ、その貝をさらに針(私は木綿針をつかっていますが)で切り出すのですが、今、この作業は女房にやってもらっています。 − 万福さんがこの道に入られたのは。 万福 私は京都でずっと漆工芸に携わっていたのですが、螺鈿工芸作家の藤井恵泉師に出会い弟子入りし、修行を積みました。36歳でしたから遅いのですよ。約7年の修行を経て、1983年に独立しました。 − 独立のきっかけは? 万福 螺鈿は伝統工芸なのですが、私はオリジナルなものをつくりたいという思いが強かった。通常、木地師、塗師、螺鈿師と分業で行っていますが、私は塗りと螺鈿の両方をやります。しかも、デザインにも興味があった。自分の世界で仕事がしたくなったということです。 実は、師匠は車椅子の障害者でしたが、私も41歳で車椅子の生活となりました。ですから、女房の助けなしにこの仕事はできません。二人三脚ですね。
− 螺鈿だけでなく蒔絵にも取り組み、螺鈿 蒔絵師として実績を積まれてきたのですね。 万福 蒔絵と螺鈿の両方をやる職人は少ないのですが、私は蒔絵もやります。伝統というのは過去の技術や型を踏襲すればいいというのではない。その時代の感覚が反映されて次代に引き継がれていくのです。螺鈿は奈良時代より発達した日本の伝統工芸ですが、平安、鎌倉、安土桃山、江戸と変化しています。今の漆芸は、化学原料も使います。いいなと思いますよ。私は真似しようと思いませんが。また、職人物と作家物は違います。 − それはどのような。 万福 職人物は技術の差異はあっても皆同じで、判別が難しい。それに対し、作家物は作品に個性があり、誰のものかがすぐわかる。オリジナル性があります。私もそういうものを作っていきたいのです。 − 今回の「源氏物語螺鈿蒔絵香炉箱展」では、まさに個性あふれる万福さんの作品が展示される。 万福 はい。源氏物語関連の作品が20点、ほかに香炉箱、棗、工芸アクセサリーなども数十点展示します。有職文様だけでなく、人物や風景、物語などの作品が多くなっています。 2001年に鎌倉に工房を移し、これまで数度展示会を開いたのですが、関西に比較して関東は螺鈿・蒔絵など馴染みがないのか、関西ほど知られていないように思う。そこでまず螺鈿・蒔絵工芸を知っていただきたい。若い人にもぜひ見ていただきたいと願っています。 会期中私はずっとおりますので、なんでも聞いていただければと思います。
− 来年11月開催の「玉縄城築城500年祭」に向け、5月末にはイメージ、マスコットキャラクターも発表されましたがどれもかわいいですね。 田中 はい。イメージキャラクターが「玉竜くん」、「タマナワくん」と「タマちゃん」はマスコットキャラクター。500年祭″を進めるにあたって、子どもたちに親しんでもらうにはこうしたキャラクターがあるとね。14点の候補作の中から、実行委員会が7つに絞り、地域の小学校(植木・玉縄・関谷)と玉縄、清泉中学校の児童・生徒2、200人で人気投票を行った結果、選ばれたのがこの3点なんです。 イメージキャラクターの「玉竜くん」は、りりしい若武者を、マスコットキャラクターの若獅子「タマナワくん」は黄八幡の旗印をなびかせて戦った名君・北条綱成をイメージしたもので、子どもに人気だったのが「タマちゃん」ですね。 こうしたキャラクターを登場させ、地域の皆さんにも親しんでもらって500年祭に向け盛り上げていこうということです。
− 玉縄城は北条早雲が建てた城ですね 田中 戦国時代の後北条氏の拠点で、1512年に小田原城の出城として北条早雲が築いたのが玉縄城です。 1963年に玉縄城の本丸跡に清泉女学院が建ったのですが、玉縄城址まちづくり会議の荒井章会長等が、玉縄城址は玉縄のランドマークだと、数年前から、熱心に史跡や遺構などを調べ、保存活動も行ってきました。そして、2012年の築城500年目を記念してお祭りを行おうということで、2009年11月にこの実行委員会が発足、準備をすすめているところです。
− 来年11月の500年祭開催まであと1年半足らず、具体的なプランは。 田中 玉縄の歴史や魅力を見直して、これからのまちづくりにつなげていこうというのがそもそもの趣旨で、500年祭もその一環なんです。 お祭りの内容はまだ具体的に決まっていませんが、500年祭法要、清泉女学院での式典、往時の玉縄をしのぶコースを歩くなどが計画されています。 ただ500年祭で終わりというのではなく、その翌年からは暦年祭として「玉縄城まつり(仮称)」を行っていく予定になっています。 − ところで、田中さんは玉縄の旧家なんでしょう? 田中 ええ。玉縄城と同じくらいの歴史があると聞いています。今住んでいる家(植木)も34,5年になりますが、その前の家は約200年続いていた。関谷小学校近くの細谷さんの家に移築しております。 私は昭和9年生まれの76歳ですが、子どもの頃は、周辺は田んぼで、東海道線にSLが走るのがよく見えました。当時は40軒ほどでしたが、今は植木町内会に加盟している世帯だけで1220ほどですからね。全体で1500世帯くらいはいるのではないでしょうか。 − 玉縄城の真下ですね。 田中 ですから、家の裏の薮からは敵を討つための丸くて平べったいつぶて石″がたくさん出ますし、西に向かって掘り進んだ深い穴もあるんです。 開発が進み、玉縄城址と周辺の史跡や遺跡も消えていく。地形も変化してきますしね。 500年祭をひとつのきっかけに玉縄の歴史とこの自然を残し、これからの世代に伝えていこうというのが、玉縄城吐まちづくり会議はじめ私たちの願いなんです。そのためにも、500年祭をぜひ成功させたいですね。
− 以前に障害を持つ子ども達の太鼓演奏を聞いたことがありますが、岸本さんが指導されていたとか。 岸本 はい。「鎌倉なみっこ太鼓」と名付け、6年前からあおぞら園(小学校入学前までの障害を持つ子どもの通園施設)を卒園した子どもを中心に十数人の子ども達に月1回太鼓を教えています。学校が週休2日制なので、お母さん達から子ども達に週末の余暇活動に太鼓を習わせたいと頼まれ始めたのです。 太鼓は打てば音が出ますし、その響きを全身で感じて楽しむことができるので子どもに受け入れやすいのです。 − 子ども達の反応は? 岸本 最初は大変でしたよ。なかなか太鼓の前に来てくれなくて。 でも、太鼓の前に来なくてもどこかでしっかり感じてくれているのですよね。感受性とか第六感はとても鋭い。手をつなぎ、寄り添い、お互いが感じ合いながら成長を支援するといった関係ですかね。この太鼓の演奏はこう!などときちっとやろうとするといい音というか味のある音が出ないんです。 ハンディある子と関わるようになって13年になりますが、子ども達の真っ白さで私自身を見抜かれるというか、人間性を試されるので、私も私の好きな自分″になることができるのですよ。 子どもが何か一つできると嬉しいですよね。ましてその一つが時間をかけてようやくできた時の感動はひとしおです。駅などで停車する駅名を全部言いながら歩く子どもを見ると、すごい世界をもっていることがわかる。ほんとうにかわいい、すてきだなと思います。 保育士としてあおぞら園に10年間勤務してきましたが、障害を持つ子どもの魅力にはまってしまったといえますね。(笑) − でも、残念ながら一般社会ではなかなか理解されない。 岸本 ニューヨークに行ったとき、バスの運転手さんが当然のように車椅子の人を介助して一番先に下ろしているのを目にしました。ごく当たり前に皆さん生活していらっしゃるように思いました。そのようなハンディをもつ人に対する理解は、日本ではまだまだこれからかもしれませんね。 − ところで、和太鼓との出合いは? 岸本 勤務した保育園で太鼓に出合い、打ち方の基本がわからなかったんです。そこで横浜の素人集団「荒武者」に毎週末通って教わりました。初めはなかなか覚えられなかったのですが、次第になんとか打てるようになり、仲間もでき、レパートリーも増え、演奏会の声もかかって、ほめられたりするともううれしくて。(笑) − そして魅力にとりつかれたということに。 岸本 そうです。和太鼓の魅力は、なんといっても打てば響くこと。体力もいりますし、体育会系の一面もありますね。とにかく元気が出るんですよ。 今まで、鎌倉芸術館で「JAZZ in 鎌倉」とコラボしたり、毎年12月開催の「ふれあいフェスティバル」では、「鎌倉なみっこ太鼓」と「大船中学8組」と共演します。 保育園の若手保育士で結成された「鎌倉波乃鼓太鼓」も教えていますが、教える事でこちらもパワーをもらえるので、毎回の練習が楽しみです。皆さんすごく上手になりましたよ。 − 私もある保育園で園児がお揃いの法被で一糸乱れず打つ太鼓には感動しました。今でも太鼓の講習は受けている? 岸本 日本全国のさまざまな太鼓を習ってきました。秩父の屋台囃子、銚子の早打ち太鼓、八丈島の八丈太鼓などその土地特有のリズムを地元の人に教わるんですが、日本の文化の面白さを感じ、楽しいんです。 レパートリーも広がりますし、いろんな方と出会える。「出会いは宝」、私の好きな言葉ですが私の財産です。 実は、私の太鼓の打ち方が男性的だから津軽三味線が合うのではと勧められ、最近習い始めたんです。もう家庭はそっちのけですよ。
− 坂井さんは加賀友禅の産地、石川県の生まれなのになぜ東京に。 坂井 疎開先に師となる中井英三先生がおられ、日本画家を志していた私は先生の後を追って16才で上京したが、それまで石川県に加賀友禅があるとは知らなかったのですよ。 その中井先生は美術の図案家で、戦後染色を始めたのですが、私は画家だと思い込んでいた。3年経って、あれオレは染屋になっている、こんなはずじゃなかったのにと。その頃、速水御舟が当たって羽織の裏を描いたりしていたけど、絵描きというのはそういうものだと思っていましたから。染色をやりたかったら何も東京に出てくることはなかったんですけどね。(笑) − 煩悶していた。 坂井 そう。18才の生意気盛りでしたからね。女の着物を染めるのが男一生の仕事なんてと、不満だらけで仕事をしていました。 染め物も芸術だ、この道を真剣にやろうと思ったのは、上京して10年の昭和34年、伝統工芸との出合いです。もっと勉強しなければいけないと、それからは必死でデザインや染色技術の修得に打ち込みました。 − 独立は。 坂井 内弟子になって15年目の昭和38年、結婚と同時です。商社からこれで好きな物をつくりなさいと10反の生地をもらいました。ろうけつ染工房で育った私は、かねて憧れていた友禅染の見本を創って発表会に出品した。でも、何百年の伝統ある方禅でしょう。そこに昨日今日始めた私の友禅が並ぶと歴然と差がある。恥ずかしくて顔を上げられないほどでした。 そんなある日、ハッと気がついたのは15年間勉強してきたろうけつを生かした友禅を創ろうということです。加賀友禅や京友禅の原色を使ってろうを併用するのは難しいのです。独学でしたが、これが評判となりましてね。伝統工芸展に出品しいくつもの賞をいただき評価を得て自信を持ちました。 − 東京友禅の特徴は? 坂井 京都友禅は1千年の公家の文化があり、雅、はんなりが、加賀友禅は加賀百万石の地、五彩(臙脂、黄土、古代紫、草緑、藍)を使う豪華な色調が特徴。それに対し、東京友禅は淡彩で粋。学芸員は江戸時代の贅沢御法度が背景にあるというが、私は、江戸っ子の気質が反映されていると思う。粋も、参勤交代で江戸勤めの武士の遊びから磨かれたものといえます。 − その東京友禅とは違った鎌倉友禅の創作に取り組んでいますが、そのきっかけは。 坂井 私は若い頃から気管支が弱かったので、東京で暮らす気はなかった。それに私には生涯賭けて創りたい作風が頭の中にあるんです。 それを作品にするにはどこがいいか考え、国際都市東京の風が感じられる郊外がいいと、東京中心に50キロ圏を円にしてみたら南端にあったのが鎌倉でした。子孫のふるさとにも鎌倉はいいと思いましてね。 昭和63年に居を移し、鎌倉友禅を名乗るとそれが受けました。でも創るものは東京友禅と変わらない。これではだめだ。鎌倉の街にふさわしい友禅を創ろうと模索し、辿り着いたのが、粋の東京友禅に対し鎌倉友禅は気品。加賀友禅は五彩ですが、鎌倉友禅は墨だと思った。そこで、「鎌倉友禅 墨の華」と銘打って創作活動をし、以来、その気品を形に表して、鎌倉友禅はこれだというものを発表していきたいと日々模索しているところです。 − その成果は。 坂井 鎌倉に住んで23年になりますが、鎌倉は自然豊かで家並みも変化があり本当にいい街です。創作の原点は感動。感動すると描きたくなりますが、鎌倉友禅は、鎌倉に自生している植物にこだわりたいという気持ちがあります。例えば生五倍子(きぶし)がそうです。私が鎌倉に来て初めて見た花ですが、着物になるまで17年かかっています。(写東参照) 着物は着ることによって初めて命が生まれるのです。豪華で綺麗な京友禅や加賀友禅は足し算の着物、それに対し、東京友禅、鎌倉友禅は引き算の着物です。着る人を尊重し、付属品を引いて行き、着る人の中身を引き出すお手伝いをするのです。着物を着ると、その人の感性、人柄が表れます。鎌倉友禅は気品。私もその晶を磨くのに苦労しているところですよ。(笑)