中国、唐の時代の、巧みな話術で知られた趙州禅師は、寺の門の前を通る人を招き入れ、「どうぞお茶を召し上がれ」と、関係のない者にもお茶をふるまったそうです。お茶を飲むことなど些細なことですが、禅師のこうした行動により、一杯のお茶で頭脳は明噺、心は安らいで、困難と思われたことも楽に解決できるのでした。
禅師の意図は、すべてを超越して只管
(ひたすら)「喫茶去」に没頭せよというのでしょう。これが趙州禅師の「喫茶去」は「命がけの一服」であって、とても普通では近づき難いものといわれる所以です。禅師の偉大な努力によるその効用が、禅門では「趙州喫茶去」といわれ、禅とお茶との大切な架け橋になっているのです。
私たちも、「お茶にしませんか」と、集まりのあと、呼びかけられることがあります。そうした時の喫茶こそは、話し合ったことへの反省も出て、大切な一瞬になるのです。
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