朝比奈宗泉の禅語逍遥

NO115
 
 37 

(筆者は浄智寺閑栖)
            へきがんろく
紅炉上一点雪  (碧巌録) 第六十九則


紅炉上一点(ルビ こうろじよういつてん)の雪(ルビ ゆき)。師走(ルビ しはす)を控え、時の流れの中で、私たちはいろいろな事件やめぐり合いを経て、この一年を終ろうとしています。十二月といえば雪の季節です。赤々と燃えている囲炉裏(ルビ いろり)の上に置かれた一握りほどの雪でも、赤い火の力には忽ちにして融けてしまいます。人の心の動き一つにしても、つまらぬ想いの妄想(ルビ もうぞう)や、いつも決断に躊躇(ルビ ちゆうちよ)するような分別心(ルビ ふんべつしん)などのため、大変苦労することがあります。そうした時こそ、しつかりした仏心(仏様の大慈悲心)や仏性(万人誰にでも具つている清浄心)などを自覚し身につけているならば、悩みはすぐに追い払えるのです。
嬉しいこと、悲しいことなど、喜怒哀楽のすべては、過ぎ行く時々の風雨と共に、流れ去るのです。先には希望に満ちた素晴らしい未来があるものと信じ、来る年をたのしみにしたいものです。



NO114
 36 

(筆者は浄智寺閑栖)
            へきがんろく
大死底の人   (碧巌録) 第四十一則


私達が一つの仕事を何とかやり抜きたい時には、心を奮い立たせるために気合いをかけますが、禅ではこの力を大死一番(先ず死んだつもりになる)といいます。「大死底の人」というのは、この大死一番を決心した時の人をいいます。これは肉体的に死を覚悟することではありません。それは懸命に自己を忘れ、両忘のように対立する意識など全部捨て去り、只管無心に徹することが大切になります。この境地になった人が大死底の人なのです。
生きることが前提ですから、例えば死をも決心する位の信念を必要とする事を言います。
趙州禅師(七七八ー八九七)は、碧巌録の中で、一度は死んだようになっても、生まれ変わった時がたのしみであると言われています。
日進月歩の社会にあって、新規の仕事などには、死をも賭した勇猛心こそが大切になってくるわけです。


NO113
 
 35 

(筆者は浄智寺閑栖)
              むもんいんごろく
百不知百不会    (無文印語録)


秋を迎え、久しぶりに「百不知百不会」と書かれた朝比奈宗源老師のお軸を床の間に掛けました。思い出されたのは、私の師匠の井上禅定師が、教育界で貢献された方におつけした戒名(絶学院無為宗閑居士)の由来です。絶学とは、学問をやめた方ではなく、しっかりとその世界を極めた方である。無為とは、為すことがないのではなく、十分に盡くされた方である。そして、宗閑とは暇な人ではなく、偉大な方であったと、こうした意味が含まれています。
同じように、不知や不会は、単純に知らないとか、会得できないなどということではなく、禅語の解釈では、世のあらゆるすべてを熟知し、知り盡くして、無心、無我の境地を十分会得した時、その人は、すべてを超越して、「知らず」とか「会得せず」といえるのです。これが禅の根源になります。この禅語の深い意味合いを理解して下さい


NO112    朝比奈宗泉の禅語逍遙 34
                 ごとうえげん
 一日不作一日不食   (五燈会元三)
 いちじつな     いちじつく
 一日作さざれば一日食らわず

  百丈懐海禅師(八一四寂)の作られた禅門僧侶の守るべき規則(百丈清規)では、作務が第一に大切とされ、次に坐禅。読経は三番目になっています。
禅師は八十才の高齢になっても、毎日の日課である作務を続けられていましたが、弟子たちは心配して作務の道具をかくしてしまいました。作務の出来なくなった禅師は困った末、「一日作さざれば一日食らわず」といわれ、御自分から召し上がらなかったのです。つまり作務は禅の修行そのものであると考えられて、修行のための作務をしなければ食事をとらないという意味です。「食うべからず」とは意味が違います。
年をとられても、規則を作られた方として、自己を律することに厳しさのある禅師の心意気は、今昔はもとより老若を問わず、学びたいところです。 (筆者は浄智寺閑栖)


NO111    朝比奈宗泉の禅語逍遙 33
 いちえんそう しんじんめい そうさんぜんじ
 一円相 信心銘 僧燦禅師 

 私たちが、床の間で見る掛軸の中には、白地に一筆で、墨痕鮮やかな円を描いたものがあります。これが一円相です。
中国の僧燦禅師(六0六寂)は、一円相について、「円(まど)かな形は太虚(たいきょ 天空・大空)の実相を意味し、そこには不足のものや、余分なものは全く見られず、そのすべては円満そのものである。」と説かれています。つまり、一円相は宇宙万物の根源を意味し、単純と思われる中に、円満で無限の力を内蔵していると考えられるのです。
禅宗の僧侶が葬儀などで引導を授ける際に、扇子や手指で面前に大きく一円を描くことがあります。これは一円相に、仏心の絶体な真理から生まれる新しい力を求めることになるのです。毎日の多忙な人生にあって、思わぬことに遭遇することがありますが、何時も心にしっかりした一円相を描いてほしいものです。(筆者は浄智寺閑栖)


NO110    朝比奈宗泉の禅語逍遙 32
         きどうろく
 壺中日月長「虚堂録」第六
こちゅうにちげつなが
 壺中日月長し

 中国、後漢の頃の故事です。ある老人が町で商売をしていましたが、夕方になると、いつも店先に吊した壺の中にツルリと入るのが習慣でした。これを見張り役人の男が、高い楼門から見ていて不思議に思いましたが、やがて老人と親しくなり一緒に壺の中に入ることが出来ました。そこは広く立派な部屋で大いに歓待を受け、辞去して外に出ると、もう時代は十数年も経っていました。この壺の中の世界は時代を超越した仙境で、時の動きは人間界と異なり、悠々としかも足早やに過ぎ去っていくのです。
古人は禅の悟りの境地を、このような世界の中に求めたのでしょうか。私たちが夢中になって仕事に没頭し、気付いた時には思わぬ時間になっていることがあります。精を出すことが少しでも悟りに近づくならば、努力こそは人生の貴重な励みになりわけです。 (筆者は浄智寺閑栖)

朝比奈宗泉の禅語逍遥
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