2008年 掲載


朝比奈宗泉の禅語逍遥
NO125

(筆者は浄智寺閑栖)

 47 
 体露金風     碧巌録第二十七則

 中国の唐の時代のことです。

ある僧が雲門文偃禅師(うんもんぷんえんぜんじ : 九六七寂)に「樹木の葉の落ちたあとをどうごらんになりますか」と問いました。禅師は、「これは煩悩や妄想がすっかりとり払われて、解脱した時の心に似ておるわい」といわれたのです。金風とは秋風のことです。普段は葉や枝が茂っているので樹の幹はよく見えません。秋風で枝葉(煩悩、妄想に比喩)が落ちて、樹木がまる裸になり、煩悩、妄想が消えてしまったふうに見えるわけです。そこで、悩みや欲が心をとり囲んで困ったときは、落葉などのように風に托してしまえばよい、と説かれるのです。心が解脱すると、松頼(しょうらい : 松の音)も、川の響きも、みんな仏様の有難いお声であると理解できます。

世間のつまらぬ考えなどはすっきりと排除した時こそ、己を知る人になれるのです。そこにあるのは「照顧脚下(しょうこきゃっか)」の心境です。


NO124

(筆者は浄智寺閑栖)

 46 
 空手把鋤頭/歩行騎水牛/ 人従橋上過/橋流水不流
五燈会元

空手にして鋤頭(じょとう)を把り、歩行して水牛に騎る。
人橋上より過ぐれば、橋は流れて水は流れず。

これは昔、中国の梁の武帝が親しくされていた仏教者の傳太子(四九七〜五六九)が詠んだ詩です。何も手に持っていないのに、突然鋤を振り回したり、ゆっくり歩いたままで、突如水牛にのってしまう。人が渡り終るや否や、今までしっかりしていた橋が流れてしまい、水の流れが止まってしまう。
こんなことは、普通はあり得ない不思議な出
来事です。
しかし、禅的な考え方には、一般の常識では理解できない不
合理な発想があり、このような表現を用いるのです。
私達の日常生活でも、時にどうにもならない事があるものです。そこで、全く奇想天外な思考(無我無心の状態で)に転換してみるのも一考です。事の矛盾や不合理を考えず、常識を超越してみる必要もあるのです。


NO123

(筆者は浄智寺閑栖)

 45 
   吾心似秋月、碧潭清皎潔   寒山詩

吾が心は秋月に似たり、碧渾(へきたん)清くして皎潔(こうけつ)たり。

寒山詩とは、中国の寒山という風変わりなお坊さんが書いたといわれる三百首ぐらいの詩集で、これはその一つです。名前の寒山は住居の岩山からつけたといわれますが、架空の人物で実存していなかったともいわれています。
「秋月の光は、深い碧の池の中まで射し込んでおり、この清らかで力強い光は、世間をくまなく照し、清くすき通った光を放っています。」
と、心に妄想や邪念のない人間本来の清浄無垢な心を詠っているのです。寒山詩が多くの人に親しまれているのは、禅的で品格のある詩風によるものと思われます。
そこで、人は日常におけるすべての邪念を捨て去り、秋月と同じような誠実で純真な心根にたち戻れるよう、吾が身を振り返り、努力すべきではないでしょうか。


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