2011年 掲載 |
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NO155 (禅語逍遥Cより再録) |
(筆者は浄智寺閑栖) |
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平常心是道 (へいじょうしん これどう) |
これは中国の「無門関」という禅の教えを説いた本の第十九則に出てくるお話しです。
唐の時代の趨州という偉いお坊さんが、その師匠の南泉禅師、「道とはどんなものでしょうか」と問うたところ、「平常心が道である」と答えられました。そして二人の問答になります。
「それはどうしたらつかまえられますか」、「つかまえたいと思ったら、かえって逃げてしまう」、「そんな実体のないものはつかまえようがありません」、「いや、考えてみよ。ものがあるとか、ないとか、そういう普通の分別などは超越して、もうどちらも考えな.いようになれば、心は晴れわたった秋の空のように清々しくなり、道は自ずからはっきりと見えて来るのじゃ。」
禅師はこう説かれました。
身を焼く恋愛でも、すべて忘れ、そしらぬ風をした方が、成功するようですね。
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NO154 (禅語逍遥Eより再録) |
(筆者は浄智寺閑栖) |
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莫妄想 (まくもうそう) |
中国唐の時代の無業禅師という方は、生涯の中で、何か人から尋ねられる度に、ただ、「莫妄想」と答えるのみでした。莫は「・・・すること莫れ」であり、妄想とは、よこしまなものへのこだわりの心をいいます。そこで、つまらぬことにこだわっていてはいかんという意味になります。
鎌倉の円覚寺へ中国の宋から来られて開山様になられた無学祖元師は、弘安の役の時、執権の北条時宗公を「莫煩悩(まくぽんのう)」の言葉で激励されました。煩悩も妄想も同じようなこだわりの心を指します。禅宗では、この心をなくすれば、悟りの境地に入れるといわれています。
「馬鹿は気楽じゃ、理屈の種が、胸にないので気が広い」と古人が言ったそうですが、こだわりを超越して、馬鹿に徹するのも人生には大切なことなのです。
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NO153 (禅語逍遥Qより再録) |
(筆者は浄智寺閑栖) |
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照顧脚下 禅林類聚(ぜんりんるいじゅう) |
脚下を照顧(しようこ)せよ。これは禅寺の玄関でよく見かける言葉です。照顧とは「照(て)して顧みる」、つまりよく見て反省することです。
脚下とは「足もと」ですから、身近なところに気をつけよ、ということになります。他所の家を訪問して、玄関で履物を乱雑に脱ぐようでは駄目です。照顧は飽くまでも自分自身を律することであって、他人に求めるものではありません。常に自己の本質と対峙して自身に問い聞かせることが肝要です。
古人が、「われ思う、故にわれあり」といわれているのは、このことを指すのであって、自身の心との会話こそ大切なものとなります。私が雲水の頃(修行中)、よく托鉢に出ましたが、必ず網代笠(あじろかさ)を深くかぶりました。
これは周囲に惑わされずに自己を見つめ歩くための一つの修行の道具なのです。誰もがこのような心構えで自己を養ってほしいものです。
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NO151 (平成17年4月10日号より再録) |
(筆者は浄智寺閑栖) |
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随処に主と作れば立処皆真なり |
これは、臨済宗の祖、臨済禅師(八六七寂)の言われた有名な言葉です。
主とは、すべての人間に内在する仏性のことです。「随処に主となる」、つまりどんな困難に当たっても、仏性の存在を自覚し、渾身の力を振り絞ってでも、しっかりした自己を見極めるこせがたいせつである、と言われるのです。そこで、「立処皆真なり」となります。進退はどうすればよいのか、と迷いの中にあったのですが、霧が晴れるように、真実は自ずから見えてくるのである、と説かれます。
人生とは、ひとたび心の緊張を疎かにすると、不安や苛立ちにおそわれて、月日が経てば、ますます再起もおぼつかなくなり、無意味な時を過ごすことになります。
人は、如何なる状況の下にあっても、平静な心を失わず、悠々と大空をゆく白雲のような心境になることが願わしいのです。
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NO149 |
(筆者は浄智寺閑栖) |
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雪裡梅花只一枝 (せつりのばいか ただ いっし) |
この度の東日本大震災で、被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。
「雪裡梅花只一枝」は、道元禅師の師如渾禅師の言葉の中にある一節で、「雪に埋もれている梅の花は、お釈迦様の悟りそのものである事を伝えております」。これを受けて道元禅師は「正法眼蔵(しょうほうげんぞう)」で「お釈迦様が悟られるのは、丁度春風が吹くようなものです。雪に埋れている梅も間もなく咲き乱れるようになります」。と伝えておられます。如浄禅師の言葉は、弟子達への励ましでもあったのでしょう。修行者は苦難を乗り越えて悟り、その喜びを得る事を期待して修行に励んでいったのです。
私たちも同じです。今回の震災にめげる事なく、苦労・苦難の厳しい道を乗り切ってこそ、花も咲き開く事でしょう。「がんばれ」という言葉は簡単な事かも知れません。でも苦難を乗り切ってほしいというのが今お送りできる本心です。
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NO147 |
(筆者は浄智寺閑栖) |
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風来疎竹 風過而留声 (菜根譚) |
「菜根譚」とは、中国の明未(みんまつ)の儒者・洪応明(こうおうめい)の著書です。
「風、疎竹に来る(竹やぶを揺さぶる)。風、過ぎて竹に声を留めず(風が通り過ぎでしまうと、そこは何事もなかった様子になる)。何かことが起きたときに、人は動揺し、それに執着して振りまわされるが、ことが終わり、時が過ぎれば元の状態に戻るのです。
「物事に執着して心を動かすようなことは、心の空(無駄)である事を知れ」ということです。
人は常に不安と苦悩を苛立ちのなかで、過ごしています。そんな時、何か普段と変わったことが超これば人は皆動揺し、「どうしよう」と心を悩ませますが、それは一時的なことで、時が解決してくれるのです。
人はどんな現実におかれても、自然体でいる。それには執着のない無心に徹することが、肝要と思われます。常に自己を見失なわず行動する事を心掛けたいものです。
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NO146 |
(筆者は浄智寺閑栖) |
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水流元入レ海
月落不レ離レ天 五燈会元(ごとうえげん) (第十六) |
「水流れて元海に入り、月落ちて天を離れず」。水の流れはそれぞれ方向を異にしていますが、最後は海へと辿り着きます。
月は東から上り、西へ没もますが、決して天を離れようとはしません。人に老若男女・賢愚貧富の差があったとしても、本来の純粋な人間性、自分の中のもう一人の自己を具えていれば本源(おおもと)に戻れるのです。
これらは主人公((5)参照)や本来面目((66)参照)と同じように考えて下さい。本来全ての人には同じ本心・仏性が具わっています。つまり本来の自己に徹することによって、差別は平等を意味し、平等は差別をする真理に還元されてしまうということです。
現代、格差社会とか政治不信とかいわれ、当然貧富の差も大きく取り上げられますが、人間の行き着く処は同じと考えると、周囲の言動や己に降り注ぐ物事にも動じず、己を信じて生きていくことが大切と思われるのです。
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