2009年 掲載


朝比奈宗泉の禅語逍遥
NO135

(筆者は浄智寺閑栖)

 57 
 夢     道元禅師 (一二〇〇〜一二五三)


昔から、一月二日の夜中に見る夢を、初夢といい、たのしみにします。これには今年こそいい夢を、と思う期待がかかっているのです。
夢とは、寝ている間に、楽しいこと、こわいこと、そして時には困ったことなど、いろいろな夢に悩まされることもありますが、目覚めて、ああ、よかったと、はっとするのも夢なのです。
禅者においての夢とは、あとに何も残さない、こだわりのない、何にもとらわれない心境、つまり悟りのことをいいます。世の中のすべての物は、夢のようであるし、幻のようなものでもあるということです。
しかし、夢をもつこと自体は人生を楽しくさせてくれますし、生きがいにもなります。
でも、世の中は甘くはありません。「はかなく、夢と散る」ことも多く無常なものです。
正月の夢ぐらい、大きくみたいものですが、夢の中で夢の真実に気づくことも必要です。


NO134

(筆者は浄智寺閑栖)

 56 
 竹有上下節     槐安国語(かいあんこくご)  第四


「竹に上下の節あり」。一本の竹の中は、芯が空ですが、等間隔に固い節がついています。この節は全体を支えているので、真っ直ぐにそびえ立ち、風雪にも強いわけです。その様子から竹の強い意志が感じとれます。
この節は、どれが上等であるとか、その良しあしの区別はありません。しかし、節のあることで一本の竹となっています。
竹は成長して古竹になると、しっかりした竹道具の材料としても、珍重されることになります。
人間社会においても、上下の区別が上手に整理され、持ち場がはっきりしていれば、組織の秩序は良好に機能し、願わしい社会を保つことになります。
生活基盤となる道徳にしても、相互の協調と融和が大切で、加えて強い意志と大らかな度量が必要です。
昔、中国へ留学した日本の禅僧が持ち帰ったといわれている竹が、今や日本でも立派に根づいています。

NO133

(筆者は浄智寺閑栖)

 55 
 清風明月 (せいふう めいげつ)    碧厳録  (第二十一則)


爽やかな心地良い風と、清く澄み渡った月ということで、世にいう十三夜か、十五夜のことなのでしょう。
碧巌録の第六則に、「誰家無 明月清風」(誰(た)が家にか明月清風なからん)の禅語があります。
自然は公平であって、人の地位や貴賎などに関係なく、どの家にも明月はさし込み、清風は吹き抜けている、という意味です。
この裏の意味は、人の心の中の煩悩や妄想などはすべて拭い去り、曇りや汚れもなくなって、無心無我の境地(純真な自己)に至った人を指しているのです。
自分もそうした「純真な自己」を持っているのであると認識しながら毎日を過ごせるならば、その人には違った世界が見えてくるかも知れません。
つまり、前のMで記述した「日々是好日(にちにちこれこうにち)」の心境をよく噛みしめ、いつもこの心を持って、悠々と暮らしてゆきたいものです。


NO132

(筆者は浄智寺閑栖)

 54 
 両忘 (りよう ぼう)    程明道(ていめいどう)  「定性書」(ていせいしょ)


「両忘」とは、両方とも忘れるということ。つまり「生と死、是と非、愛と憎、苦と楽など相対的、二元的な考え方はやめなさい」ということです。禅の考えには、二者択一は無いのです。これは、中国の宋の時代の儒学者程明通の「定性書」の中に「内外両忘するに若かず。両忘すれば則ち澄然無事(ちょうぜんぶじ)と説かれていることに由来します。
前の「53」で記述した「放下著(ほうげじゃく)」と同じ意味です。このように、二元の相対する思いを放下することで、対立する両方の価値を比べる必要もなくなり、心のわだかまりが消えて真実の姿が見えてくるものです。
人生にはどうしても迷いが付きまといます。毎日の何気ない事柄でさえ、左右の判断を求められるものです。そこで、結論を出そうと思わず、曖昧(あいまい)さの中から真実を発見する努力もいいでしょう。こうした柔軟な思考の中にこそ穏やかな日々を過ごせる要素があります。


NO131

(筆者は浄智寺閑栖)

 53 
 放下著 (ほうけじゃく)    従容録(しょうようろく) 第五十七則


昔、中国の厳陽尊者が趙州禅師(七七八〜八九七)に、「一物不将来の時如何」(私はもう何もかも捨ててしまいました。こんな時はどうすればいいのでしようか)と伺いました。禅師は、すかさず、「放下著」、著は…せよの意味で、放下とは捨てるですから、「全て捨ててしまえ」と答えられました。「もう何も無いと申し上げたのに捨てよといわれても、どうにもなりません」と申し上げると、禅師は、 「恁魔(いんも)ならば即ち担取し去れ」(それなら、かついでいけ)といわれたのです。
つまり何も無いという事に執着(しゅうじゃく)する事がいけないと言われたのです。
人生は毎日が苦労の連続です。こうした悩みを切り抜けるためには、確固とした意志と決断力で全てを捨て切ることが大切になるのです。二元の相対する思いを放下することで気が楽になり、清らかな真の自分を取り戻すことができるわけです。


NO130

(筆者は浄智寺閑栖)

 52 
 非心非仏 (ひしんひぶつ)    無門関(むもんかん) 第三十三則


中国、唐の時代の高僧、馬祖同一禅師(七八八寂)が、弟子の僧から「仏様とは、どんな方ですか」と問われ、「即心即仏」つまり「純真な心が仏の心です」と、答えられました。ところが、別の弟子の同じ質問には、「非心非仏」と説かれ、これでは純真でない心も仏の心ということになり、そこには矛盾が生じます。禅の本心としては、仏とは! 心とは! などという執着心を捨てることにあります。つまり、すべての考えを超越して、両忘(二元的な考え方から脱すること)に徹することがいいのです。そして行雲流水のような心境になることが、願わしい心のあり方といえましょう。
現世は、ストレスを感じながら心身ともにすり減らした人々が多すぎます。
難かしいことですが、執着心を捨てることによって、自分の心を凝視し、自己の本質をもう一度覗いてみようということです。


NO129

(筆者は浄智寺閑栖)

 51 
 回光返照 (えこうへんしょう)    普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)


これは臨済禅師(八六七年)や道元禅師(どうけんぜんじ:一二五三年)などが説かれた禅宗の大切な教えのひとつです。     
「回」は転換であり、「光」はこうみょう光明、「返照」は外に求める心を内に返し向ける事です。これで、外にばかり求めようとした心を内に返し、純真な本当の自分を見極められる、しっかりした根性を持った人になれるということです。
とかく人は、他人の言葉や文章などを、自分の考え方や、人生と比べて、気になることがあると、それに振り回されてしまうものです。あまり他人の意見に槌り過ぎてもよくありません。
せちがらいともいわれる現代社会であればこそ、見失っている本来の自分の発想を積極的に展開してみてはいかがでしょう。努力次第では無理を道理と理解されます。これで自己を取り戻し、立派な本当の自分を確認できるのです。


NO128

(筆者は浄智寺閑栖)

 50 
 東山水上行     雲門広録 巻上


ある僧が、雲門文偃禅師(九四九寂)に、五祖の弘忍禅師(六八八−七六一)の道場があった東山という山を、どう思われますか、と問うたことに対して、「東山は水の上を走っておるわい」、と答えられたことが事の発端になっています。山が走るわけではありません。禅の教えにあっては、例えば、生と死、苦と楽というような、対立する意識が主体となる発想があってはいけないのです。以前、 (46)で記述したことのある、「橋流水不流」と同様、禅的には、矛盾でも不合理でもありません。

 妄想すること莫れ(莫妄想)や両忘ということになり、すべてを放下する(断ち切る)斬新な発想につながるのです。
行き詰まった時は、分別や妄想を否定することから出発するのも賢明なことかも知れません。このことによって、新しい展開も可能となるでしょう。


NO127

(筆者は浄智寺閑栖)

 49 
 一期一会     茶湯一会集


一期とは、人生の一生をいい、一会とは一度の出合いのことです。茶人千利休(一五二二〜一五九一)の弟子山上宗二(一五四四〜一五九〇)の宗二記には、茶会の心構えとして、「どんな茶席であろうと、その席についた時から退去するまでは、その瞬間をしっかり見極め、亭主(主催者)に対し、敬畏の念を持って接しなさい」と説いています。
昔、日本の海軍航空隊にいた友人から、「鎌倉の鶴岡八幡様には最後の一会を段葛の上空からすませほっとしました。」と、こんな手紙をもらいました。彼はこの一会を心に刻み、南冥(なんめい=南方の海)た向かったのだと確認したのでした。
仏教では、「会者定離」といいます。つまり会う者は必ず別れるという貴重な言葉で、これこそ「一期一会」になるのです。日頃会っている友人でも、その時は二度と同じことにはならないと認識して、大切にしたいものです。


NO126

(筆者は浄智寺閑栖)

 48 
 天地与我同根、万物与我一体     碧巌録第四十則


天地と我と同根、万物と我と一体。
この世のすべてのものは、みんな異っていて、同じには見えないもの、つまり千差万別てす。しかし、その大本をさぐってみると、自分も他のものと同根(同じ)であり、一体であるわけです。
自負心や執着心をすべて追い払い、無我、無心の心境で、その現象を見つめることによって、すべては一如(分けへだてのないこと)であり、万物は一体であると理解できるはずです。
一般社会においても、全く自分と相入れないと思われる些細なことでもちょっとした思考の転換により、これが想像以上に立派な考えであったりと、認識することが出来る場合があるものです。
他と自分は違うものと、最初から考えずに、それらの事柄に一度自分を没入してみれば、意外と一如一体になることも可能かも知れません。


     
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