2010年 掲載


朝比奈宗泉の禅語逍遥
NO144

(筆者は浄智寺閑栖)

 66 
 本来の面目   (六祖壇経)ろくそ だんきょう

 「本来の面目」とは、端的にいいますと、純粋な持って生まれた自己そのものを指すことです。
人間は、泰や分別心があるため、本来そなわっている真実の自己が見えて来ないものです。
道元禅師は、この自然の姿が見えることを大切にされ、「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて掠しかりけり。」と詠まれています。
禅門においては、そうした生まれながらに持っている清らかな人間性をとり上げ、仏心とか、あるいは主人公(既述D)などといいます。仏心の力により、純粋な真理の琴線にふれて、相対的認識をなくし、絶対の認識を得ることができるのです。
私たちにとっては、飲酒もまた喜びの一つです。どんなにお酒を飲もうが、それに流されない本来の自分をしっかり持っていることが大切です。お酒は、般若湯とも、薬水ともいわれ、仏門でも禁止(修行中以外)されることはありません。


NO143

(筆者は浄智寺閑栖)

 65 
 万里一条鉄   (人天眼目巻二)じんてんがんもく

 千里、万里ともいえるほど、とてつもない遠い隔たりがあろうとも、一本の鉄の長い棒で、二つの意識(真理)ががっちりとつながっているという意味です。さて、人間の心の奥には、どっかりと座り込んでいる本体(真如・実相・仏性・仏心)があるといわれています。これをまた、主人公(前述D)・本来の面目などといいますが、六祖大師(慧能)はこれを自性といっておられます。この仏心、若しくは自性こそは、空間の隔りはもとより、時間も意識しない存在で、まさにこれを終始一貫といっていいわけです。
さて、長い人生にあって、吾々は何らかの形で大きな決断を迫られることがあります。
そうした時、安易に妄想や分別心などに捉われ、しっかりした決断を見失うことがあるものです。しかし一条鉄による「終始一貫」の仏心を信じ、苦難の山を乗り越えられるものと一途に信じ、我道を進んで頂きたいものです。


NO142

(筆者は浄智寺閑栖)

 64 

 弘忍(ぐにん)禅師(五祖)の法をついだ慧能(えのう)禅師(六祖)は、周囲のねたみを怖れ、ひたすらかくれていて、十五年も経ってしまいました。そろそろ世の様子はどうかと、故郷、広州の法性寺(ほっしょうじ)に行ってみましたら、境内にはお経の講義のためのたくさんの幡(のぼり)がたっていました。これを見たある僧は、風が動いている(風動)といい、ある僧は、幡が動いている(幡動)といいました。しかし、六祖は、これは人の心(あなたの心・心動)が動いているのであるといわれ、それらはすべて一つのもの(万物一体)に由来していると説かれたのです。無門禅師もまた「動くのは風でもなく、幡でもなくところでもない」とされ、「本心を把握して心が動じないところに禅の本性がある」と説かれるのです。
毎日の仕事の中で対応の如何により、思わぬ困惑を招くことがあります。そこで、執著分別の心を捨て切ってこそ、万物が一体であることが理解できるのです。


NO141

(筆者は浄智寺閑栖)

 63 
そつたくどうじ


そつたくどうじ


NO140

(筆者は浄智寺閑栖)

 62 



NO139

(筆者は浄智寺閑栖)

 61 
 般若      般若心経(はんにやしんぎょう)


私たちが身近なこととして、日頃、声を出して読んだりする「般若心経」というお経があります。このお経によりますと、人間界のすべては、一切が「空(くう)」であると説かれています。空とは実体のないもので、これが本当に認識されれば、苦しみの元凶である煩悩(ばんのう)や妄想(もうぞう)などは自然に取り除かれ、すっきりした菩提接の彼岸(悟りの世界)を目ざしていることになります。この力は、仏の悟りの智慧であって、般若といいます。
この般若とは、学問上の智恵のことではありません。これは、懸命に積み重ねられた、宗教的な修行から得られた、仏の尊い智慧であるのです。
人は修行によって一切の空を認識し、現状を超えて、より勝れた実体の発見に努力することができるのです。そこではたゆまぬ努力と実行力こそが大切な人生の基盤となります。それは「莫妄想(まくもうぞう)」(連載6)や「放下著(ほうげじやく)」(連載53)を理解することから始まります。


NO138

(筆者は浄智寺閑栖)

 60 
 白拈賊 びゃくねんぞく     「碧巌録」第七十三則


白拈賊とは、白昼堂々と誰も知らない間に、盗みを行う盗賊(スリ)のことをいいます。臨済禅師(八六七寂)は白拈賊のような方であったといわれますが、これは衆生の誰もが持っている煩悩とか妄想を、気づかれることなく取り払い、人を純真な本来の人間に立ちかえらせる大きな力量をお持ちになったことからこういわれたのです。
鎌倉時代、蒙古襲来の時、円覚寺の無学祖元禅師(一二二六〜一二八六)は、執権であった北条時宗(三十一歳)に白拈賊と同じ意味を持つ「莫煩悩(まくぼんのう)」という言葉を与え、努力を促したことによって、苦難を回避し、危機をきり抜けることができました。
白拈賊も莫煩悩もどちらも要は馬鹿になることが大切であるということです。禅語でいう、大愚・大拙ということで、いつも心を安らかにし、煩悩などに振り回されず、無我・無心の状態になることです。


NO137

(筆者は浄智寺閑栖)

 59 
 無位真人(無位の真人) むいのしんにん     (臨済録)



「赤肉団上(しゃくにくだんじょう 人間の体)に一無位の真人あり、常に汝等諸人の面前より出入りす」。
「私たちの身体には、無位の真人(むいのしんにん)という仏様のような方がお住まいになっていて、常に身体を出たり入ったりされている。判っておるかな」、と臨済禅師が問答の中で弟子たちにお尋ねになっています。
この真人とは、周囲から制約を受けることなく自由・平等な境地の解脱人(げだつにん)といわれる方です。この方にお会いすることが大切であると説かれるわけです。
無門関(むもんかん)(第十二則)に出てくる師彦禅師は毎日自分の中のもう一人の自分に向かって、「主人公(本人)、どうじゃいねむりしていないか、しっかりせい」と励ましの言葉をかける方であった、といわれています。
現代は、不安の世相といわれますが、こうした時こそ自分に問いかけ、純真な自己をしっかりと呼びもどして精進していきたいものです。


NO136

(筆者は浄智寺閑栖)

 58 
 無心     伝心法要 (でんしんほうよう)


中国の東晋時代の詩人陶淵明(とうえんめい)(三六五−四二七)が、官吏の生活に飽き、「いざ帰りなん」(さあ帰ろうよ)と故郷を目ざしたときに詠んだ詩「帰去来の辞」は、純真な新鮮さを求める心の現われとして、昔から多くの人に愛読されています。
そのひとつに「雲無心以出岫(しゅう)」(雲無心にして以て岫を出ず)。
雲が高い山の洞穴(岫)から湧き出てくる雄大さを詠んだものですが、自我を捨て去り、無心の境地にひたりなさいということになります。貧困をいとわず、晴耕雨読、自適の生活に甘んじた詩人といえます。
とかく人間社会は理想を求め過ぎ、現実の認識の甘さかち遊離した行動をとってしまうことがあるようです。つまらぬ邪念を捨て去り、無心になり切ることこそ大切になります。また、「白雲流水共悠悠」という句があります。無心に徹することで何ものにも束縛されることのない自由な心境を現わしています。


  朝比奈宗泉の禅語逍遥
     

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