− 市会議員からそば職人へ…、思い切った転身でしたね。 古屋 それがひょんなきっかけなんです。議員を辞めたのが3年前の2005年5月で、私はパソコンスクール開設の準備をしていた。ところが、女房が55歳で横須賀の調理師専門学校に通って料理を勉強していたのですがその友達が、定年退職後仲間4人と横須賀でそば屋を始めていたんです。ところが、リーダーの奥さんががんで、看病に専念するという。このままではそば屋を閉めるざるをえない。でも皆さん志をもって始めたので、つぶすのはしのびない。その話を聞き、それなら引き受けようということになったのです。すると6月1日から来て欲しいと −。 − それでパソコンスクールがそば屋になった?(笑) 古屋 そう。6月1日に行くと、じゃあネギを切ってくれという。 でも私はそれまで包丁を握ったことがないんです。皆ビックリしましてね。私が店を引きうける条件の一つにそば打ちの指導があったのはいいが、私は左利きなんですよ。でも左利き用のそば庖丁はない。そこで右手で切れという。始めたものの、最初の半年間、お金をとって出せるそばではないと全部捨てられましたよ。とにかくゼロからのスタートでしたからね。 ある時、実は私は鎌倉でお店を開きたいんだという話をしたんです。すると師匠が、おまえも60歳を過ぎているんだからすぐにやれという。それから物件を当たってここ大塔宮前に開店したのが1年後(2006年)の10月でした。 − それから2年。 古屋 先輩達も素人で、皆定年退職者。横須賀のときは客もあまりなかったですしね。それが秋の行楽のトップシーズンにオープンでしょう。最初はしっちゃかめっちゃか。(笑)先輩からそば屋の亭主はだしの管理とそばを打てば、あとは遊びに行くくらいでないとダメだといわれたけど、そんな余裕はありませんよ。私は朝4時、早いときは3時半に起きてそばを打ち、タレをつくっています。その後は、客の入りによって他の職人が打っています。 − 味の方は。 古屋 こだわっていますよ。醤油は四国、味りんは千葉から取り寄せ、鰹節、昆布も最上級のものを使っています。そば粉は栃木の農家と直接契約し、注文すると1〜2日後には挽いた粉が届きます。 最近はリピーターも増え、東京から友達を連れて来てくれるお客さんもいます。地元の常連もできましたしね。 経営的には利益日的ではないので、5年目くらいに黒字になればと思っています。うちは、「手打ちそば作りを通して社会に責献する」を基本方針にしているんです。 お客様に喜ばれる手打ちそばの提供はもちろんですが、他に高齢者(定年退職者) の生き甲斐としての働く場、障害者の社会参加の場にしていきたい。すでに職人は定年退職者中心で、週2日ほど働き、あとは好きなことをやるワークシェアリングですし、脳性マヒの子も働いています。 − もともとエンジニアだったのですね。 古屋 はい。三菱電機でコンピュータのエンジニアでした。それが組合から電話がかかってきて市会議員にでてくれないかという。委員長から、鎌倉生まれ、鎌倉育ちだからと言われ、立候補することになったのです。42歳でした。 それから20年。私は無所属を通し、行政改革一本。当時クローズアップされていた日本一高い鎌倉市の退職金引き下げ、それから職員削減、議員定数削減に取り組み、勤続20年を機に辞職したわけです。 − エンジニアから議員、そしてそば職人、3つの人生を生きている 古屋 私はこだわらない性格。常に夢を持ち、好奇心をもって生きるのがわたしのライフスタイル。 やるときは一生懸命やる、これできました。 今後の夢は、海外にそば屋を広めることで、すでにパリ、ロサンゼルス、モントリオールなどの知人に声をかけ、来年には上海に行 くつもりです。10年若ければ支店を出したいのですが、コンサルタントとしてやっていきます。この夢が実現したら私の人生も終わりかな…。(笑)
− 鎌倉芸術祭参加「歌書と陶磁器−尾崎左永子・堂前忠正展」が11月28日からカトレヤギャラリーで開催されますが、歌書と陶磁器のコラボレーションはどうして…。 尾崎 私と堂前さんとの出会いは20数年前。金沢で犀川沿いの画廊をのぞいたら、大樋焼の展示会をやっていてその奥に足を運ぶと、私に「おいで おいで」する器があるのね。繊細な曲線が美しい耳付青磁の小さな花瓶で、気に入って買い求めたのです。 それを包んでもらっている間、さらに奥に入っていくと、秋草の文様が描かれた青磁花瓶があって、それもいいんですよ。聞くと同じ作家の作という。でも、2つは持って帰れずに諦めたのですが、気になって仕方ない。そこで数日経って金沢の友人に頼んで送ってもらったのです。 それから2〜3年後、この話を「陶芸の美」という雑誌に書いたところ、その作家から手紙をいただいた。それが堂前忠正さん。初めてお会いしたのは小田急の展覧会でしたね。お話を聞くと、青磁を焼くようになったのは、蔵王の湖でお釜を見てあの色を何とか出せないかと思ったからというのです。私には混声合唱組曲「蔵王」という作品があるんですよ。彼は高校時代に「蔵王」を唱って、実は音楽家志望だったというんです。まさに奇しき縁でしてね。 展覧会は、その堂前さんの作品に、私の歌書が20点くらい。帯に書いたものも出品します。 − 文学少女だったのですか。 尾崎 書くのは好きでした。小学校6年生の頃から、モノを書いて食べていくんだという思いはありました。 − 17歳で歌人の佐藤佐太郎門下生になっています。 尾崎 韻文を捨てないでと学校の先生に言われ、いやいや短歌に入ったのですよ。(笑)でも、それが基礎訓練になっています。源氏物語にも古今和歌集の言葉が散りばめられています。それも和歌を知っているから読み込めるんです。 − 今年は「源氏物語」千年紀、源氏ブームですね。 尾崎 私が一番嫌なのは王朝文学を男と女の物語にされることです。私はほの明りの美学と言っていますが、要するに全部がほのかなんですよ。多湿な風土性なのでしょうが、何もかもがゆらゆらゆらめいている。四季の移ろいの中で何もかもがいずれ滅びる、滅びの美学があるんですね。それを単純に男女の恋愛小説のように読まれてしまうとすごく悲しい。 私が源氏物語に本格的に近づいたのは、50歳過ぎてからです。源氏物語の第一人者・松尾聡先生に師事して、16年間お世話になりました。「源氏の恋文」「源氏の薫り」「源氏のあかり」の三部作も、源氏を一歩一歩読み込んできたおかげです。源氏物語も昭和53年頃から訳していたんですよ。 − 近作の『「鎌倉百人一首」を歩く』もそうですが、先生の文章はナレーションを聞くような心地よさがあります。 尾崎 それは放送作家だったからね。私の文章は声を出して読まないと本当の良さがわからないと思う。昔NHKラジオで「夢のハーモニーという番組があり、それを20年書いていたんです。合唱組曲の歌詞も11曲あります。「蔵王」はその最初の作品なんですよ。 − それだけに、昨今の言葉の乱れは気になるのでは。 尾崎 そうですね。でも、言葉というのは生き物ですから。落ちるところまで落ちれば、またキチンとしたものが出て来るでしょう。 私には美しい日本語を次世代に伝えたい思いがあって、歌とことばの雑誌「星座」の主筆をしているのもその一環なんです。 心配なのは、欧米の論理で日本語を解釈されてしまうことです。最近は、ファジーであることが日本文化なのだとわかりはじめてきたようですけどね。 − 鎌倉に住まわれて何年に。 尾崎 31年ですね。鎌倉に越す時、ある占い師から「鎌倉に行くとモノが書けるようになる」と言われたんです。確かに、歴史的にも、自然風土的にも落ち着いていて、ものを書くにはいいところですね。何か書け、書けといった感じがして。ですから書きたいことはまだいっぱいあるんですよ。(笑)
− 鎌倉をさまざまな切り口から紹介している大貫さんですが、始まりは花がテーマだったとか? 大貫 そうなんです。僕は昭和36年に横浜にある女子高校の教師となり、文芸部の顧問の時に、生徒たちがテーマに取り上げたのが鎌倉だったのです。ある日、生徒に付き添い建長寺を訪れ、僕は所在ないのでベンチに座っていた。すると、「アンアン」、「ノンノ」を持った若い女性が次々来るんですよ。 こんな抹香臭いところにどうしてと見ていると、どうもお寺の風情や花に関心があるらしい。もともと植物が好きだったこともあり、どこのお寺にどんな花が咲くのか、そのデータを集めてみようと……、それがきっかけだったのです。 − それからお寺めぐりが…。 大貫 はい。分厚い「牧野植物図鑑」をもって、休日はお寺めぐり。それでも物足りずに、その頃茅ヶ崎に住んでいたので、出勤前の朝4時頃家を出て鎌倉に5時頃着き、7時頃までお寺を訪ねました。ご住職とも親しくなって、いろいろ教えてもらいましたね。職場にカメラ好きがいたので、彼が写真の撮影。一応のデータを集めるのに4年かかりました。それから出版社回りして、真珠書院から「鎌倉・花あるき」として本になったのです。 − その後対象も、樹木や建築、史跡、文学など多方面にわたっています。鎌倉はテーマパークだというのが大貴さんの持論ですね。 大貫 聞きかじり、読みかじりで調べていくと、次々関心が広がっていくんです。僕はそれぞれの分野を極めていらっしゃる方の努力の結晶をいただき、皆さんに読みやすく提供する、メッセンジャー役ですね。(笑) いま関心持っているのは巨木、古木で、子どもにもわかる易しい本にしたいなと思っているんです。 例えば、建長寺の柏慎は700年、750年にもなる。当時は何本もあったのが、1本だけ残っているんですね。伽藍に火がつき大火となったとき、あの柏慎を周りの木が助けたのです。仲間の友情を知っている木なんですよ。それをやさしい文章で書き、基本データはきちんと説明し、大人も読める本にしたいなと。 − 世界遺産登録については。 大貫 鎌倉はいま世界文化遺産登録に取り組んでいますが、僕は鎌倉が全国、世界に誇る財産は何かといったら埋蔵文化財を忘れてはならないと思うのです。世界遺産にふさわしいレベルのものが多い。発掘調査も進んでいますが、その成果が十分生かされていないのが現状です。鎌倉は中世150年、日本中に号令をかけた核となった町。それを世界の人が理解できるようにように整備を急がなくてはいけないと思うんですよ。 − それにしても、相変わらず観光客は多いですね。 大貴 あらゆる世代が訪れますし、最近は人種を越えてますから。(笑)例えば、外国の人は750年も厳然として残る大仏さんに惹かれて来られるのでしょうが、同時に、路地のある町の雰囲気にも魅了されるのではないでしょうか。 区画整理されない、カーブした道にはブロック塀ではなく生垣が風情を醸し、その先何があるかわからない、そんな魅力といいましょうか。 僕は鎌倉に住んでまだ4年なんですが、住んでみないとわからないことがいろいろありますね。例えば、大仏殿は最終的に津波で壊されたと言われていますが、その前に記録上2回大風で倒れている。でも、昔の建物で風で倒れるなんてちょっと考えられない。ところが、大仏殿の脇に居を構えてわかったのは、この辺りは海から上がってくる風が一気に絞られて強い風になる。地元のお年寄りは昔から黄金風と呼んでいるそうなんです。僕はこの風が大仏殿を倒したのではと勝手に想像しているんですけどね。(笑) − 鎌倉を愛する会の活動は。 大貴 この会は25年以上前に三上次男さんが鎌倉の自然を守るために活動をしている方を応援しようと始められ、僕は3代目の会長です。毎月例会を開き、史跡めぐりや講演、参道のゴミ拾いなどをやっていますが、高齢化で参加者も少なくなってきた。ぜひ若い人に参加してほしいですね。
− 数ある楽器の中でフルートを選ばれたのは? 吉川 小学校4年で習ったリコーダ、それが笛との最初の出合いで、リコーダを吹いて通学していました。フルートは卒業の時に買ってもらったのです。 優しく爽やかで力強いフルートの音は私の心に響き、耳にする音をフルートの旋律に置き換えて味わい楽しむことのできるこの楽器に魅せられてしまいました。それに、ジャンルを超えて様々な挑戦ができるのも魅力ですね。 − レパートリーが広いのは、そのチャレンジ精神から? 吉川 フルートのオリジナル曲以外にも、ピァノコンチェルトやバイオリンコンチェルトにも挑戦しています。6月発売の新譜には、クラッシックの運命や新世界など、皆さんもよくご存じの曲をボサノバやタンゴにァレンジしフルートで演奏してみました。ビブラフォンや打楽器など他の楽器とのコラボやオルゴールとジョイントしたり、いろいろやっています。(笑)この新譜CDには、斉藤栄さんの小説「湘南太平記」に曲をつけさせてもらいました。私にとっては初めての作曲なんです。 − そして、ユニークな活動の一つがマタニティーコンサート。 吉川 はい。もう20年になります。私は世界の子守歌を集めたり、音と心理にも興味を持っています。フルートは女性の音域に近いこともあり、妊娠中の方とお腹の中の赤ちゃんとの思い出の音や音楽を持っていただけたらという願いを込めたリラックスタイムの演出としてのコンサートを始めました。コンサートはもちろん、フルートを見るのも聞くのも初めてとか、クラッシックは苦手という人もいます。そこで、作曲家や作品のエピソードを紹介しながら演奏しています。 − 反応はいかがでしたか。 吉川 トークを交え、また様々な楽曲をひとつのプログラム構成としたコンサートはその頃余りなかったので喜ばれました。でも、しゃべるときは左脳、演奏は右脳を使います。また、呼吸法が違うのです。初めは私の方が戸惑ったりでしたけど(笑)。それがもう20年。私の曲を聴いて産まれた子に巡り会うことも度々あります。最初にお腹の中で聴いてくれた子がもう20歳なんです。私の今の夢は、親子三代で楽しんでもらえるコンサートを開くことなんです。 − 演奏する場所も様々ですね。 吉川 音楽はコンサートホールで聴くだけではないと思うのですよ。さまざまな建物とのコラボも演奏の楽しみなんです。鎌倉では鎌倉文学館や建長寺などの寺院、旧華頂宮邸などさまざまなところで演奏しています。演奏というのは空気の振動で聴く人の耳に伝わります。そんな空間の楽しみ方も生演奏の醍醐味なんです。 建長寺の法塔では、打合せの時は非常にいいお天気で、手を叩くと天井の龍の絵からカンと音が返ってきて、残響も素晴らしいと喜んでいたんです。ところが本番の前日が大雨。木造の建物ですから水分を吸い、空気も重くなって、龍が音を全部飲み込んでしまったようでした。でも、小さな窓を見ると、フルートの音に誘われるかのように鳥がたくさん寄ってきてさえずり始めたのです。まるで私の演奏と共演しているかのように。フルートと鳥と天井の龍とのコラボ、心に残る演奏会のひとつです。 − ところで、11月に障害者施設等を運営するラファエル会を支援するチャリティーコンサートに出演されますね。 吉川 はい。ラファエル会は学生時代から存じあげております。健常者も障害者も助け合えるそんな優しい街がいいですね。 コンサートではギターの千代正行さんと、ドボルザークの新世界などクラッシックからポピュラー、大河ドラマ「篤姫」、私の「湘南太平記」も演奏します。楽しい 一夜を過ごしていただければ嬉しいですね。
おいくつになられましたか。 内藤 大正6(1917)年生まれ、今年の9月で91歳。いい歳ですよ。(笑) −鎌倉では最高齢のお医者さん? 内藤 現役の医者では私が最高齢ですね。
− 高齢で現役、その秘訣は? 内藤 それはありません。私は「健全な精神は健全な肉体に宿る」と小学校時代から徹底的に教え込まれてきましたが、肉体を鍛えればいいというものでもない。 際して体力を要する仕事は高齢けなると出来なくなる、衰えるのも早い。 それに比べ、知的職業は長命ですね。その筆頭格が神官・僧侶や絵描きさん。比較的自分のペ−スで仕事ができるからです。逆に、知的職業でも短命は医師や弁護士です。作家も余り長生きしない。なぜかというと、自分のペ−スで仕事ができない、請負仕事なんですよ。作家なども締切に追われる。医者も、患者があれば食事半ばでも救急に応じなければなりません。私も、ここで開業した頃は、午前中の診療が夕方5時までかかるというのは当り前でしたから。でも、いまは暇、診療も午前中だけです。今では内藤洋子(女優)の親父ですよといわないとわかってもらえませんから。(笑) でも、よくオレは100まで生きるんと豪語して、冷水摩擦やらさまざまな健康法をやっている人で、90歳まで生きた人はあまりいません。 無理するのはよくないですね。天然自然がいい。逆に、「健全な肉体は健全な精神に宿る」というべきなのでしょうね。一番必要なのは気力・意欲です。
− 好奇心旺盛がいい。 内藤 好奇心が強いというのは、医学が本当の科学とは違って生活がついてまわる人間相手の臨床的な学問だからです。医学はどんどん変わりますし、その都度文献を読んだり、情報を得ないとついていけない。医者には免許皆伝が絶対無い。ということは、好奇心の強い人にはいつでもフレッシュな職業で、まだ現役だという自信にもつながるんです。 元来私は凝る方でね。歌舞伎は昭和12年、菊吉の全盛時代から見ています。去年はi3回も足を運びました。謡、鼓も大先生に習い、今も謡は弟子に教えています。俳句もやりますし、園芸、金魚も長いですね。 でも、聖路加国際病院理事長の日野原重明先生には驚きます。プラス思考のお手本ですよ。2年前の95歳時の著書に、階段を一つおきに上がると書いてあった。娘の洋子夫妻が先生宅を訪れた時も、夜の10時、11時になるからお暇しようとしても帰してもらえず、午前2時頃まで話をお聞きしてきたと言っていました。私に言わせれば怪物ですね。
− ところでここ(大町)に開業されて何年になりますか。 内藤 もう50年ですね。叔父から「悌よ、家が長いこと空いているので来ないか」と言われましてね。当時、清瀬に住んでいましたが、女房も当時流行の鎌倉夫人に憧れていたので、喜んで引っ越してきました。 かつてここは牡丹屋敷といわれ、歌人の木下利玄が住んでいたところ。鎌倉には文士が多く住んでいて、その住まいの跡も次々わからなくなっている。そこで、小島寅雄さんが市長のときに、文士の住居跡を示すプレ−トを作ったらどうかと提案し、ここも木下利玄屋敷跡にといったら、大賛成、やりましょうといってくれたのですが、結局実現しませんでした。残念でしたね。
− 今も町をバイクで走っているそうで、まだまだ元気。鎌倉の怪物ですね。 内藤 いやいや。バイクに乗るのは、深部静脈血栓でヨタヨタ歩きになったからなんです。それに、耳が遠くなっています。聴診器も最近は高性能の電気聴診器に頼っています。この間、高齢者運転講習に行き、目の検査をしたら、検査官にこの次の検査は落第しますよといわれました。あちこち悪い。 孫のミニダックスフンドを連れ散歩に行っても、ワン公にまでヨタヨタを読まれているんですから…。私は、日野原先生のようにはいきませんね。(笑)