− 鎌倉市恒例の2011年新春ギャラリー展は「美のリレー村田良策から佳代子へ」。良策氏は、神奈川県立近代美術館を創設されるなど美術界に多大の功績を残された方ですが、絵も描いておられたのですか? 村田 描いておりません。ですから今回、「お父様から佳代子先生の道筋を作品で飾っていただければ」とお話をいただいたときは困ってしまい、最初お断りしたんです。でも、県立近代美術館をつくり県立博物館の初代館長と新設の際の苦労、努力などを形として展示したら鎌倉市美術館の問題のヒントにもなるのではといわれましてね。 たまたま1787年東京芸術大学100周年で父の資料をまとめて芸大にお渡ししていたものや出身地佐野市の市制50周年展でとり上げていただいた遺愛品、当時の画家や作家などの手紙と結構めずらしいものもあり、それらを展示すると面白いかなということでお引受けしたのです。 − 村田さんは良策氏の最後の弟子で、長男と結婚もされた。美のリレーがどのように受け継がれたか、それを読み取る面白さもありますね。 村田 はい。私は父の最後の教え子で、アーティストはこうあるべき、なぜ美術史という学問が必要か、美学はどうしたら人生に生かされるのかなど、絶えず教育されました。制作者として私がどのような形でそれを生かしているのか、そんな展示となります。 父は東京美術学校の最後の校長で、新制の東京芸術大学の初代美術学部長になったのですが、その時、これまでのような徒弟制度の私塾の延長のような美術学校ではだめだと大学改革に取り組んで、実技だけでなく芸術学科をつくり美術史など理論を教えた。実技も、これまで東京美術学校出の先生に限られていたのを、日本画に在野の前田青邨先生、洋画は、東大出で絵は自己流の林武先生を迎えた。反骨精神の人だから、自ら矢面に立って変えていく、そういう人でしたね。 そんな父も、一人のがんばりの限界を知って、大切なのは子供の頃の本物教育だというようになった。私は父の代講で美術史を教えていたのですが、結婚し子供が生またのを機に1968年にアトリエMを開設したのです。父は子供だからといって決してレベルを落とす必要はない、大学で教えたと同じようにやったらいいというのですよ。その2年後に父が亡くなったのです。 − その頃から絵を描くように? 村田 当時海岸橋にあった画廊喫茶ダジュールで父の追悼展覧会を行って、父のデスマスクと、娘が生まれてから毎月同じ日に娘の顔を描いていたのを展示したのです。これが第1回個展「愛娘」。翌年、日常スケッチを「日々の鎌倉」と題し発表。それを見たミニコミ誌「鎌倉市民」の原実さんから連載を頼まれ、やがて鎌倉に住む人の眼で、残してほしい景観などを絵にしないかと言われ、「花の鎌倉」、「石の鎌倉」、「空と水の鎌倉」、「祭りの日の鎌倉」、「大路小径の鎌倉」、「館、屋敷の鎌倉」と7年続け百景を描き終えたのです。 − すべて油絵ですか。 村田 ほとんどそうです。すると子供に絵画ジャンルを紹介する聖書絵本の油絵の挿絵を頼まれた。父はよく自分の好き勝手に描くのはどんなに達者でも日曜画家だ、ヨーロッパの絵画史を見ても注文画の両者の関係が成立してこそプロだといっていました。私も自覚してプロになるならば私にしか描けない作品で注文に応じられるような作家を目指したいと思っていたら、カトリック雪ノ下教会から鎌倉のキリシタンの絵を頼まれ、各地から殉教画を依頼されるようになり欧米からも展示の声がかかり、夢のような話ですが、イタリアでグランプリも獲得しました。 その後も主に、キリシタン歴史画を描いてきたのですが、私が洗礼を受けたH・チースリク神父から殉教者ぺトロ岐部の絵を描いてほしいと頼まれていたのに、残念ながら神父様の生前に描けなかった。2003年に25枚の油彩画で「ぺトロ岐部の生涯」を完成し、個展を開いたのですが、大分県立先哲史料館からの要望で寄贈。同年収蔵されました。2008年に「ペトロ岐部と188の殉教者」の列福式も終えほっとしている時に、今回のお話をいただいたのです。 美のリレーをみなさんどうご覧になるか。私は、これからも望まれたことを望まれた時期までに、できれば望まれた以上の作品にしてお渡ししたいという思いで描いていきます。
− 11月25日に、玉縄学習センターで講座「鎌倉の伝説絵巻」〜史実にもとづく絵物語〜を行いますが、鎌倉に伝わる昔話はどのくらいあるのですか? 関根 鎌倉に伝わる昔話を調べてみようと始めて10年ほどになりますが、いま40話集まりました。50話くらい集めたいと思っているのですがね。今回は、そのうちの10話をまとめて脚色し、友人の渋谷雅子さんに絵を描いてもらい、紙芝居や絵巻にして一話ごとにナレーターが語るという趣向です。1話が10〜15分で、それぞれに私が歴史的な解説をしてまいります。 − 鎌倉にまつわる史話がそんなにあるとは知りませんでした。もちろん史実に基づく話ばかり。 関根 はい。学術的に立証できるかは別ですが、お寺さんに代々伝わる話とか、伝承です。例えば、徳川家康が鎌倉を訪れた時食べた弁当箱がある。それが嘘か本当かはわかりませんが、それにまつわる話が伝わっていますし、弁当箱も現実に寺宝として存在します。 これはつくり話ではなく、史実の一つではないかということでとりあげています。ですから、「昔あるところに…」といった昔話とはちがいます。それぞれに根拠がある話なんですよ。 − 郷土史を始めたきっかけは? 関根 私の住む城廻は玉縄城があった地で、玉縄北条氏の菩提寺が植木にある龍宝寺です。先代住職が玉縄の歴史を伝承していかなければということで玉縄郷土研究会をつくった。その会に父もメンバーに加わり活動していたのですが、昭和60年に亡くなった。すると住職からお前が親父の後をやれと誘われ、加わったのがきっかけです。その住職が平成12年7月遷化され、その後、この会が休眠したので、同時期にできた玉縄歴史の会に加わって研究を続けています。 実は私はサラリーマン時代から、古民謡の収集、研究をやっているんです。大学を出てある企業に入社しましたが、北海道から九州まで転勤が多かったのですね。そこで行く先々で民謡収集を行って、約4千曲を集めました。 − すごいですね。なぜ民謡を。 関根 全国を転々としていると、同じような唄が各地にあるんです。南風(ハエ)にのってたった一つの唄が日本中を廻っている。ハイヤ節がそうです。長崎平戸の平戸ハイヤ節″や熊本の田助ハイヤ節″、それが北前船にのって日本海を北上し、島根の浜田節″、石川県の加賀ハイヤ節″、新潟ではおけさの原型となっているし、山形の庄内ハイヤ節″、津軽海峡で青森のアイヤ節″を残し、太平洋を廻って仙台の塩釜甚句″、瀬戸内海を通って三原の三原ヤッサ″となり、四国に渡って阿波踊りになっています。鹿児島のパンヤ節″が終点となる。すべて口論伝承でしょう。これを調べていくと面白いんですよ。 − 仕事の合間に調べて回る? 関根 はい。みなさんご存じの「五木の子守唄」の、五木の里にも行きました。そこの雑貨屋のオバサン(堂坂よし子さん)が、我々の知る五木の子守唄とは全然違う曲調の子守唄を歌うんです。これを録音して皆に聞かせたらびっくりされました。昭和40年頃だったと思いますが、RKB毎日放送から全国放送され、民謡の先生方が研究され、その後歌っている方の名をとって堂坂節と名付けて、地元では今も保存されています。 − いま取り組んでおられるのは。 関根 ライフワークが「我儘日本史年表」。日本史年表はいっぱい出ていますが、鎌倉始めこの地域中心の年史はない。生前、父親がノートに書いていたものを私が整理・追加し、ワープロに打ってまとめた、ふるさと歴史年表なんです。 − 今こそ郷土の歴史を子供達に伝承しないと消えてしまいますね。 関根 そうなんです。ここに生まれ育った人と外から来た人の違いは、地名を呼ぶアクセントでわかります。例えば植木は、ウエキとアクセントが工にあるのが正しいのに、ほとんどの人がウにアクセントを置いている。岩瀬もイワセでなくイワセなんです。アクセントに始まり、地元の伝承・伝説をぜひ伝えていかねばと思います。これは大人の責任です。親の世代は他に故郷があっても、子供たちはこの地がふるさとなんですから。
− 65歳以上の市民が48%も占めるエリアもある鎌倉は、介護の問題は待ったなしです。8月21日、 「終のすみ家を考えるおしゃべり会」がひらかれたとか? 樽井 はい。私の住む西鎌倉の団地は、昭和30年代に開発されました。みなさん夢を描いてマイホームを建てられたのですね。ところが、社会的な地位もあり、ある程度の年齢になって移ってこられた方は、地域社会の中で助け合って暮らす意識も持ちにくく、そのような関係もつくりにくい。でも高齢化はどんどん進んでいます。 そんな中、「自分たちの老後を考えたら助け合っていかないと暮らしていけないわね」という声が出るようになった。そこで、仲間と一緒に「西鎌倉たすけあいの会」をつくったのです。それが25年前。 住み慣れたわが家、わが町に暮らしたくても、果たしていつまでこの生活が続けられるかと考えると不安でした。 − 女性が担う介護から介護の社会化へということで平成12年に介護保険がスタートしたわけですが、すでに25年前にそのような問題意識をもっておられた。 樽井 当時、主人がくも膜下出血で一晩で亡くなり途方にくれましたが、子供がいますし何とか働かねばと思いました。幸いなことに私は一番ケ瀬康子先生(現日本女子大学名誉教授)のもとで学びましたので福祉の仕事をと探したら、あまりに給料が安い。結局、夫の会社で働くことに。でも社会とつながりをもって子育てしたかったのです。ボランティア活動からスタートを切り、ネットワークづくりや、地域介護支援機構の立ち上げ(平成11年発足)、高齢者へのホームヘルプや給食サービスなど、学生時代に学んだ福祉の活動に取り組んできました。 平成4、5年頃、ボランティア活動から、行政と協働による市民活動に関心を持つようになったのです。「やってもらう」から「皆で支え合う」介護サービスへと世の中も変わってきました。有料化ではあっても、地域の中でお互いさま″と助け合う住民参加型になってきたのですね。 − しかし、鎌倉では元気なお年寄りが多いようです。100歳を超えて一人で退院している方もいるとか。 樽井 そうなんです。介護保険の認定を受ける方は約20%位、あとの80%は比較的お元気な方。ですから介護も大事ですが、元気で長生きしていけるような方策も大事なんです。 私は、子供が大学を卒業するまではと主人の経営していた会社で働き、いよいよ給料もいただけなくなったのを機に、自宅を改装し、デイサービス(デイ西かま)を始めました。手間のかかる家庭料理を食べていただく、なじみの人とおしゃべりしたり、看護師によるバイタルチェックなどのサービスを提供できる核となる場所がいつでも通える場所にあるということが安心につながります。 利用者からここに泊まりたいとよく言われます。「デイ西かま」は、これからも高齢者の食と心と体を支えていきます。実は、9年間のデイでの食事をもとに講談社から「食べたいもの食べやすくデイサービスで人気の介護食撃が発売されるんですよ。 − 少子高齢化もあり介護保険によるサービスだけで高齢者を支えるのは無理だというのが現状ですね。 樽井 そうですね。私自身、介護を身近に考えねばならない年齢になってきました。先日の「終のすみ家を考えるおしゃべり会」の結論も、「やっぱり最期まで住み慣れた場所で暮らしたい」というものでした。 私は約十数年前から「居たまま老人ホーム」構想を持っているんです。鎌倉は持ち家で暮らしている人が多く、今のお住まいそのままで老人ホームのような機能を持たせられないかと考えているんです。 そのためには、見守り、食事、ホームヘルプ、訪問看護、住宅管理、緊急時サービス、外出介助、移送サービス、余暇活動のデイサービスなどが受けられ、行政と市民が協力し、小さな地域単位で、住民によるNPOが管理し、元気な高齢者同士が働き合える、そんな仕組みを作り出せないかといま夢を膨らませているんです。
− 大船中学校の教師を辞めて知的障害者のための作業所を始めたきっかけは? 林 それまでは、受け皿がないということで、重度の知的障害者は学校に行きたくても行けなかった。その就学免除の制度が昭和53年に廃止され、大船中学校の特殊学級にも重度者が入学されて私はその教師をしていたんです。ところが、卒業して就職しても、指示がうまく伝わらないのに「言う事を聞かない」と怒られたり、暴力をふるわれて結局、やめてしまう。そんな行き場のない子供たちを見て、障害者が働く場をつくりたいと思った同じ職場の3人の女教師が、教職を辞めて小町に地域作業所を開設したのです。 − 3人一緒に辞めてしまった。 林 そう。たまたま3人とも牛年でしてね。それなら「犇(ひし)めき」ということから「工房ひしめき」と名付けたのです。(笑) 鎌倉には神社仏閣が多いので、当初は、干支にちなんだ土鈴を作った。それから、牛乳パックでの手すきはがき、アンパンマンの指人形、染色(藍、草木)、燻製、ろうそくや、味噌やデコ石けんを外注で受けて作っています。 − 利用者は? 林 定員が60人。知的障害者地域作業所として民家を借りてやっていましたが、持ち主の代替わりで出ざるをえなくなったりで、小町から由比ガ浜へ、また第2工房を材木座につくってきました。それらを社会福祉法人「ほしづきの里」としてここ鎌倉山に結集し、法人化するのにも10年かかりました。 私たちが13年前に借金をしてこの建物を建てたのですが、毎年250万円を20年間返さないといけない。 まだ7年かかるのですよ。そのため、家族会ではリサイクルショップ「なかま」を開設、その売り上げ100万円を寄付してくれますし、バザーやチャリティコンサートの寄付金などを返済に充てています。 − 知的障害者の居宅支援としてグループホームも運営されていますが、こちらは。 林 30年もやっていますと、ご利用者もそのご両親も高齢化します。一人暮らしの人もいて、生活の援助をするケアホームが必要になってくるのです。現在、松毬(まつぼっくり)の家(男性6名)、木犀(もくせい)の家(女性6名)、木蓮の家(女性4名)、大手毬の家(男女7名)の4か所、いずれも年金の支給額(約6万円)で暮らせるホームです。世話人さんも足りないので私も時々泊まっているんですよ。 その他、介護保険の対象にならない入浴、食事、トイレ、着替えなどの身体介護、調理、洗濯、掃除、買い物などの家事援助、通院介助などの移動支援を行うケアサービスセンター「さくら道」も運営しています。 − そのような情熱の源泉は。 林 障害者の皆さんのニーズに応えてきただけなんです。私はもともと福祉の人間、大学の専攻も福祉でしたしね。ですから大まかにわかっても計算は苦手(笑)。赤字の時でも何とかやってこれたのは、必要な時に必ず経営がわかる人、計算に強い人、事務方のお手伝いをしてくれる人が現れるんです。 計算していたら物事は進まない。私は借金も平気だし、赤字でも「必要だからやります」と言ってきた。でも、いろいろ工夫しているうちに3年も経てば黒字になるんですよ。根拠はあまりないんですけどね。(笑)。 − 今後の展開は。 林 私も60歳。今後の道筋をつけたいと思っているんです。その一つは、リサイクルショップ「なかま」を運営している方が高齢で辞めることになり、法人が引き継いで運営するために、大船界隈にお店を探しています。もう一つは、自立を手助けする短期入所(ショートステイ)施設を開設すること。8uの個室が7つ造れるような建物の賃貸、売却先を探しているところです。鎌倉山、梶原、寺分辺りが希望なんですけどね。 実は、私も参加している中小企業家同友会に障害者福祉部会を立ち上げ、この4月から弁当会社「ラビー」がA型事業所を始めたのです。最低賃金を支払うなど雇用契約を結んで、今「ひしめき」から5人が就労しています。ご利用者が自活の道を切り開く手助けとなればと期待しているんですよ。
− 鎌倉彫錬陽洞の三代目ですが、初代はどんな方でしたか? 奴田 初代の祖父は明治19年生まれ。横浜にある金沢漆器の職人でしたが、ある塗師屋の紹介で三橋家27世鎌岳に弟子入りし、重点的に漆の修行をして大正10年に塗り工房として独立。父も12歳で祖父の下で働くようになりました。宝戒寺境内に小さな工房を借りて始めたものの、大正12年の関東大震災でメチャメチャに、やむなく御成のこの場所(市役所そば)に移った。私が子供の頃、この辺りは野っ原で野球ができたし、ここから由比ガ浜の海も見えましたよ。 − 二代目のお父さんは? 奴田 祖父は塗りの職人ですから彫刻はほとんどしない。そこで、父は職人から彫りを教わったそうです。子供の頃から絵が好きで、今でも使える酒落た絵を描いています。大震災の傷も癒えた頃(昭和4年)、良家の奥さんたちの要望もあって祖父が教えるようになったのはいいのですが、職人を仕込むのとは違い奥さん連中はおしゃべりが多く、祖父にはどうも合わない。そこで、2回日からはまだ20歳の父に、おまえ行けと。(笑)こうして出稽古を続けるうちに、鎌倉彫教室の展開につながっていったのです。その後、アチコチに教室が誕生するんですが、うちが第1号なんですよ。 − それが久留美会へと発展していくわけですね。 奴田 そうです。今の久留美会の誕生は昭和26年。現在生徒さんは420人位、2年に1回銀座で展覧会一を行っています。来年が60周年ということで、記念イベントも計画しています。バブルがはじけた後、鎌倉彫を下支えしてくれたのが教室なんです。これがなければ皆へたっちゃったですよ。 − 浅彫りを考案されたのも二代目ですね。 奴田 はい。というのは、生徒さんは女性が多い。女の人の力では深彫りは難しい。そこで、浅く彫っても美しいものをと考案したのです。 もともと鎌倉彫は、廃仏毀釈によって仏師に仏像や寺院の仕事がなくなり、一般の家庭向けの道具を作るようになって普及していったのですね。ですから装飾品ではないんです。お盆を彫っても深く彫ったら器が倒れてしまうでしょう。父は浅肉で、線の流れを利用し動きを工夫したり、真ん中を彫り込んでも器が傾かないようなものをといった発想で浅彫りを始めたのです。 私も教室を継いで、師匠である父の浅彫り中心にやっています。これは久留美会流ですね。ですが創作展などに出品するのは深彫りです。形の変わったものや深いものなどはやはり深彫りでないと。 − 鎌倉彫というと後藤家と三橋家の二派が言われますが、どのような遠いがあるのですか。 奴田 一言で言うなら、三橋家は鋭く、きつい彫り、後藤家は深い彫りもあるが、やさしく、素朴な彫りですね。かつては職人はそれぞれ秘伝、特技をもっているので、他の職人の息子などは弟子にとらなかったのですが、いまは伝統鎌倉彫事業協同組合もでき技術の交流・研鑽も盛んですよ。 − しかし、鎌倉彫は高いというイメージがありますね。 奴田 それをよく言われるのですが、ちがうんです。いま鎌倉で作っていない、漆を使っていないが鎌倉彫と称するものを売る店が多い。本物に比べ値段は3分の1でも、本物は耐用年数が10倍ですよ。どちらが安いですか。鎌倉彫というのは伝統的工芸品産業の振興に関する法律(伝産法)指定の工程を踏んだものをいいます。ですから、鎌倉彫は伝統証紙の貼られているものを買って下さい。私はいつもそう言っているんです。 − これまでの業績が評価され、昨年秋の叙勲で瑞宝単光章を授与されましたね。公務も多い。 奴田 いやいや。仕事が好きだからやってきたまでで。いまは、業界の仕事の他、まちづくり協議会、文化協会、老人クラブ連合会、商店街連合会などから世界遺産登録の事業部長までやっています。 本業をやる時間がなくなって困っているんですが。 これも自分が生まれ育ち、鎌倉彫が縁で交流が生まれた土地のためですからね。
− 「図書館とともだち・鎌倉」の発足が1998年1月、今年で13年。そもそものきっかけは? 阿曽 ニュージーランドに滞在する機会があって、その時見聞きした図書館サービスにとても感銘を受けたんです。その一つが病院サービス。病院内に公立図書館の分館があり、蔵書も約1万5千冊ある。しかも、カートで司書が病室を回って、歩けない患者には本を届けてくれるんです。ああ、いいなと思いました。私が年をとって動けなくなった時、こんなサービスが受けられるように今から準備しておこうという話を友達にしたら、友の会を立ち上げようということに−。 始めてみると、図書館そのものの働きがよくわかっていなかった。そこで、図書館見学や先生を囲んでの学習会など、まず図書館を知るところからスタートしました。 − どんな活動を? 阿曽 図書館は、私たちが生まれ、言葉を覚え、学び、そして死ぬまで、情報を得て学ぶ、知性と心を自ら育てるためのサポート施設なんです。ですから、利用対象がものすごく広い。そこで、子ども達の図書館見学やおはなし会などを行う一方で、大人のための講演会を開いてきました。昨年からは行政との連携で協働事業が始まり、「ファンタスティックライブラリー」(図書館まつり)などさまざまなイベントを行っています。 また、2002年が当会の5周年だったのですが、前年の9月11日にアメリカで同時多発テロが起こった。そこで、改めて平和について考え、図書館の大切さを見直そうと、5周年記念事業として世界ヒバクシャ写真展や映画会、講演会を開催するなど、フレキシブルに活動しています。 − テーマも舞台も図書館。 阿曽 そうです。図書館の機能、存在意義を、図書館の利用者だけでなく、利用していない人にも発信していくことがとても大事だと思っています。図書館カードを持つ人は市民の3割位で、あとの7割は恩恵に浴していないわけです。図書館の役割や面白さを知らないというのはもったいない。いろいろな形で情報発信して図書館の応援団を増やし、皆の声が届けば行政も図書館サービスに目を向けるようになるのではないかと。 というのも、いま図書館振興予算はゼロなんですよ。しかも16年前から司書を補充していません。人的な余裕もない中で、専門性のある分野はプロにおまかせし、図書館の振興事業については市民の力が発揮できる部分をいろいろと提案し、図書館と一緒に事業を行っています。 − ところで、来年は鎌倉市図書館開館100周年ですね。 阿曽 はい。私も実行委員会のメンバーなんですが、現在100周年史の編さんを手分けして行っているところです。 鎌倉の図書館は1911(明治44)年に創設され、県内の公共図書館では最も古い図書館です。 創立にあたっては東郷慎十郎さんという篤志家から、当時のお金で1000円の寄付と1000冊の寄贈がありました。ところが、鎌倉の図書館の生みの親ともいうべきこの東郷さんが坂ノ下に住んでいたことはわかったのですが、それ以上のことがわからない…。あきらめかけていたときに、問い合わせていた福井県の図書館から連絡が入り、廃藩置県を機に作られた戸籍を記録した私家版の冊子に載っていることがわかったのです。 それを契機に、兄に第3代福井市長の東郷竜雄や、日本海海戦で東郷平八郎と並び2人の東郷といわれた東郷正路中将がいたことなどがわかってきました。 こうしたことは図書館なしにはわからなかった。改めて、図書館の大切さを知りました。 いずれにしろ、100周年は100年に一度のビッグチャンス。誕生から始まって、その後も、鎌倉文士などによる貴重な蔵書の寄贈や寄付によって鎌倉の図書館は支えられてきた歴史があります。この伝統を大事にして、これからも市民が育て、市民が支える仕組みを充実させたい。図書館のための寄付、寄贈の受け皿となる本の森、本の海基金のようなものをぜひつくりたいですね。