− 「かまくら今昔抄60話」第2集が好評ですね。 清田 「鎌倉朝日」の連載が始まってもうは年ほどになります。始めた時は3年位なら自分の守備範囲でと思っていたのが、最新号(12月1日)で用話。いまやライフワークになりました(笑)。 −第1集は鎌倉文士はじめ文壇的話題が多かったようですが。 清田 まあ、頭の中にある題材をこなしていくとそちらが多くなったということですかね。他の人がおやりになっている古文書を研究したり、資料を掘り下げる純然たる郷土史研究とはちがい、私の場合はエピソードをからめ、それにまつわる話を書いていく、そういうジャンルがあるかどうかわかりませんが郷土史話といったものです。 − テーマの選択は? 清田 今昔″ということで、今のことを書くにしても昔とのつながりを拾い出す。私個人の経験も含めて、今書いておかないと消えてしまうことを取り上げています。ですから、こういうものを書き下ろししろといってもできませんね。 − ジャンルも多岐にわたっているので、資料もものすごいのでは。 清田 そうですね。昔から絵ハガキを集めたりするのが好きでした。書くつもりではなく、集めるのが目的だった。勤めが神田神保町の周辺でしたから、古書店まわりばかりしていました。即売展に行くと、クズと思われる中に思わぬ発見がある。偶然、私の手にくっついてくるんですよ。奇縁です。 そんな資料がいくつかあります。好事家というのでしょうか。ともすると資料収集で終わってしまうところを、機会を与えられて紹介してきたらここまできたということでしょうか(笑)。 − 情報提供もあるでしょうね。 清田 はい。たとえば、旧華頂邸の最初の公開日に知り合った老人が、この邸の建築に関わった大工さんで、唯一存命の方だったのです。どうしても話が聞きたくてお願いしたのですが、その後2年ほど連絡がない。ところがある日、ちょっと書いたので見てくださいという電話があって、1枚のメモをいただいた。それは、建築年代が昭和4年となっているが実際は昭和6年であって、屋根裏に棟札が納めてあるというものでした。市の担当者にその話をして調べてくれないかと言ったのですが、いまだ検証されていないようです。 − そういう情報や資料は年々消えていってしまいますからね 清田 そうなんですよ。私も、関東大震災の時、祖母が食糧など買い集めた話などいろいろ聞いているし、金銭出入帳も残っている。そんな話を書いておきたい。関心がなければ次々忘れられ、捨てられてしまうものです。市井の人の資料というのは、他人が見てもその背景がわからないと書けませんから。 私の本の読者は、同世代かその近くの人が中心で、若い世代になるとほとんど理解できないでしょう。だからこそ昔の事象を掘り起こし、伝承するとともに、自らの体験も後世に伝える責務があると思うのですね、私たちには。 − 清田さんにとって鎌倉とは? 清田 やはり自分を育ててくれた土地であり、先祖から受け継いだ.土地でもあって、それをあらゆる意味で後世に伝えていきたいということです。 自然も大事にしてほしいし、歴史・文化も伝承してもらいたい。誰が住んでも、誰が訪れても癒される土地として永久に続いてほしいのです。 − ということは、まだまだ書き続けていただかないと 清田 いやいや(笑)。実は、鎌倉FMの「湘南鎌倉いまむかし」という番組で来年1月3日(日曜日の正午)から1年間、第1集の朗読が始まるんです。目で読むのとは違い、声で聞くとまた違った発見もある。文章を読んでもらうのもなかなかいいもんだなと思いました。
− 活動の始まりが暴走族対策だったとか? 大津 はい。平成4年に結婚し娘が生まれ、6年に鎌倉(腰越)に越してきたのですが、近くが暴走族の集合場所だったのです。これはいかんと、署名活動を始め、5000人の署名を集め知事にお願いに行き、平成16年に「神奈川県暴走族追放条例」制定にこぎつけました。県の暴走族対策指導員として中学校などで話をしていますが、当時1500人くらいいた暴走族が今は500人ほどに減ってきました。 − それが「犯罪から鎌倉を守る会」へ.の展開となったのですね。 大津 暴走族対策が一段落したときに、空き巣被害に悩んでいた七里ガ浜や西鎌倉の自治会から何とかならないかと相談を受けましてね。その時考えたのが、防犯パトロールに拍子木を使うことでした。市内のほとんどの自治会に、拍子木パトロールをやりましょうと呼びかけたのです。拍子木のいい点は、パトカーは目で見るパトロールですが、拍子木は音なのでどこにいても確認でき安心です。 地域で街を守るには最高のアイテムだと思いますね。いま市内には約150ほど防犯団体がありますが、そのうち50ほどの団体と拍子木を鳴らして一緒に廻っています。 ただ、このNPOができた時、私が言ったのは、犯罪者を取り締まる団体ではなく、犯罪に苦しむ人たちを生まない団体だということです。鎌倉から犯罪で悲しむ人を出さない会にしようというのが出発点なんですよ。今年の4月に「犯罪被害者支援条例」が県条例として全国で初めて制定されましたが、私も発起人となっています。 当会では、鎌倉市内の犯罪情報を無料配信しており、現在6000世帯が登録済み。ぜひ、皆さんのメール登録お願いします。Eメールはno-crim@s5.dion.ne.jpです。「配信希望」と打っていただければ配信いたします。また、防犯相談や情報も受け付けています。 − しかし現役の銀行マンですよね? 大津 ですから平日は仕事モード。帰りも10時、11時という生活です。子どもたちの防犯教室は平日しかできないため有給休暇もほとんどそれにあてています。(笑) 私が今一番力を入れているのが子どもの防犯問題なんです。子どもは声なき被害者。子どもの犯罪は警察がキャッチしている被害の約7倍はあるといわれいています。子ども犯罪の大半は児童性愛者が深く関与しています。アメリカでは、子どもが安全安心に暮らすことを国民の最重要事項としており、市民が常に元児童性犯罪者の情報を持つことができるメーガン法もあります。子どもを犯罪から守る点では、日本は先進国の中で一番遅れている。子どもが一番被害にあう年齢が7歳なのに、CAP(子どもへの暴力防止プログラム)を取り入れているのは10歳から、これでは遅すぎます。そこで、とにかく神奈川県だけでもということで、いま「児童ポルノ規制に関する意見書」と「神奈川県版メーガン法の導入」に関しての要望を松沢県知事に提出しています。子どもを守るのは私たち大人の責任なんですから。 − そのエネルギーの源は? 大津 青臭い正義感かな。というか、犯罪にあった人が世の中から切り離され、犯罪者がのうのうと生きている矛盾。これを地域全体でなんとかしたいということです。私は地域力こそは防犯力だと息うんです。それは地域を愛する力。この力があれば、地域にほころびができたとき、すぐに修復でき、犯罪者を呼び込まない。鎌倉は地元を愛する人が多く、地域力は強い。この力をうまく結集できれば鎌倉は日本一の防犯都市になれる。それが私の目的ですね。 − 鎌倉検定」も大津さんの発案とか? 大津 そうなんです。京都で「京都検定」をやっているニュースを見て、これを鎌倉でもと思って市などに働きかけたんです。このベースにあるのが鎌倉の再発見″。 いま元JTBだった妻が「鎌倉検定市民の会」をやっています。でも、これも鎌倉の地域力につながっていくと思うんですよね。 ※犯罪から鎌倉を守る会 (TEL090−9814−0696)
− 鎌倉市景観重要建造物に指定されている西御門の旧里見ク邸に事務所を設け、サロンとしても活用されるようになったいきさつから。 久恒 僕らは、それまで御成通りにあった銭湯の裏側の古い建物に事務所を構えていたんです。そこの中国風の蔵がなかなかいい空間なので、ギャラリー蔵″として若者たちに無料開放していた。ところが地主さんの以前からの計画もあって、ついに銭湯ともども壊されてしまった。仕方ないとプレハブで仕事をしながら、次は洋館だぞと探していた時だったんですね。 それが2年前、現在所有されている石川さんが、事情があって東京に越さなければならないけどどうしたらよいかと相談されたのです。話をうかがううちに、じゃあ僕らがお借りしますということになったのです。 − これまで久憧さんは古い建物の保存に取り組んできましたが。 久恒 はい。僕は、古き艮きものを継承することは、飽きのこない新しいデザインをつくることにつながると思っています。でも、昔の建物をそのまま残すというのは大変なんですよ。経済論理の中でそれが成り立たないと難しい。そこで、こうすれば収益も出て維持管理していけるというストーリーができれば古き艮き建物を残していこうという人も増えるのではないか、そう考えてやっているんですけどね。 − 旧里見邸は大正15年に建てられていますが、第1印象は? 久恒 里見クさんが自ら設計されたということで、アチコチにこだわりのあるモダンな感じの面白い家だなと思いました。かつて田園調布に住んでいた頃、友達の家にこのような家が結構あったので、懐かしさもあったですね。 鎌倉にはこのような建物がいくつかあります。それをネットワークできたら面白いなと思っているんですよ。 − 事務所と共に西御門サローネをオープンされた。 久恒 地域の交流拠点として利用いただければと考え、主にレンタルスペースとして運営しています。ウエディングパーティーなどに利用されたり、アカデミア・サローネと称する講座や、コンサート、朗読会などのイベントも行っています。テレビドラマの舞台にも使われましてね。最近のテレビドラマ「官僚たちの夏」の一シーンとして登場したり、近々放映の黒木瞳さん主役のドラマ撮影にも使われました。オープニングに里見ク展をやったのですが、鎌倉市芸術文化振興財団理事長で鎌倉文学館館長の山内静夫さんには大変お世話になりました。実は、それまで山内さんが里見クの息子とは知らなかったのですよ。(笑)。 − そして10月にはチェーホフの「ワー二ャ伯父さん」を公演されるそうですね。 久恒 そうなんです。住まいそのものを劇場にしようというのです。鎌倉市芸術文化振興財団との共催なんですが、東京ノーヴィ・レパートリーシアターはかみさんのいた劇団で、演出は、ロシアの演出家レオニード・アニシモフさんです。彼は、スタニスラフスキー・システムの研究者で、実践家。ノーヴィーの芸術監督・演出家なので、ロシアと日本を行ったり来たりしている方なんです。 彼は、こちらに移りたいというほど鎌倉が気に入ってしまい、西御門サローネを見て、ここはいい、ぜひここでやりましょうということであれよ、あれよという間に上演が決まったんですよ。 − しかし、舞台というにはあまりに狭いのでは。 久恒 応接間の壁際に観客席をつくり同じ空間で演ずるらしいのですが、舞台がサンルームに代わると観客も移動するというか、追いかけ回す。夕暮れから夜になる情景でも、照明は使わず、自然の時間に合わせるんです。その場面をタイムスリップして見ているように…。2日間の公演ですが、1公演は20席しかない。まったく新しい形の演劇なんですよ。 − 話題を呼びそうですね。 久恒 ええ。いま鎌倉には演劇がないんですね。 新しい演劇が鎌倉の文化の一つとして定着したら面白いと、山内さんとも話しているんです。
− 専務理事に就任されて約1カ月、椅子の座り心地はいかがですか。 遠藤 いやー。井手(太一)会長には、黙って座っていてくれればいいからと言われたんですが、なにしろデスクワークは初めてなので戸惑うことばかり。ご迷惑にならないようにやらねばと頑張っているところです。 − 遠藤さんと言えばプロ野球で134勝をあげた元横浜大洋ホエールズのエース。その人が、観光協会の専務理事に就任されたのでびっくりしたのですが、そもそものきっかけは。 遠藤 私は、鎌倉に住むようになって13年、井手さんとは10年ほどのお付き合いがあります。ある日、観光協会の仕事を手伝ってくれないかと言われましてね。私は、観光協会がどういうものかまったくわからないし、実際、野球解説など今やっている仕事もありますからお断りしたのですが、「大丈夫、そんなに忙しくない。これから鎌倉を積極的にアピールしていくので、その宜伝マンになってなってほしい」と。 ところが、大違いでしてね。(笑)。 − 鎌倉に移られたのは?。 遠藤 海のそばに住みたいという家内の希望だったんです。知り合いが鎌倉にいて案内してくれたのですが、家内がすっかり気に入って即決。以来、由比ケ浜に住んでいます。 とはいっても、これまで私は仕事先と家の往復で、地元とはほとんど接触がなかったんですよ。八幡宮も大仏も、中学(福島県出身)の修学旅行で見たきりです。とくに大仏はその頃抱いた大きなイメージを大事にしたいということで見ないようにしていたのですが、これからはそうも行かないですね。(笑)。 − 8月には鎌倉花火大会もあります。 遠藤 そうなんです。観光協会には財源がありません。そこで、花火大会は実行委員会を立ち上げ、商工関係者始め有志の協賛金を募って開催しています。しかし、今年は不況の影響で環境は非常に厳しい。その中でお願いしていくには、何か見返りがあれば一番いいのでしょうが…。 花火大会も、これまで陸に向かって海風が吹くので煙が立ち込めて次の花火がよく見えないという不満がありましたが、今年は花火屋も変わり、時差をつけて打ち上げたり、工夫を凝らしこれまでと違った花火を楽しんでもらえると思っています。 − ところで、選手時代の遠藤さんはしなやかなフォームにキレのいい速球、それにフォークで横浜大洋ホエールズのエースとして活躍されました。しかし、最近の横浜ベイスターズは弱いですね。今年も早々に監督も替わりましたが、遠藤さんとしても歯がゆい思いがあるのでは。監督への気持ちは。 遠藤 今のベイスターズは、選手層が薄い。とくに柱となるピッチャーがいませんからね。監督はつらいですよ。 でも、私は監督よりも若い選手の技術を磨き、成長する姿を見るのが楽しい。今、JAA(ジャパンアスレチックアカデミ)でこれから活躍するアスリート育成に関わっています。鎌倉でも、鎌倉中央ロータリークラブ主催の野球教室をお手伝いしています。オフに湘南シーレックスの選手に声をかけて一緒に指導しているんですが、楽しいですよ。確か、第1回参加の子どもが、甲子園に出場しましたね。 − 野球の世界から観光の世界。マウンドは違っても投球(仕事の)スタイルは変わりませんか。 遠藤 そうですね。やる以上は先発完投のイメージでやりたい。 鎌倉は年間約1900万人の観光客が訪れる、一大観光地。これから海外からも積極的に観光客を呼ぼうという計画もあります。少ないスタッフで対応していくためには何よりチームワークが大切です。 私も町に出てさまざまな人たちとの交流を深めていきたい。とにかく町全体が一つになって取り組めたらと思いますね。といっても、今はウオーミングアップの状態ですけど…。(笑)。
− 定額給付金還元セールがいよいよ始まりました。 小嶋 ええ。この6月6日から21日まで、商店連合会が鎌倉市、商工会議所と一緒に「定額給付金地元還元 いざ鎌倉1・2セール」を市内の参加商店街で実施しています。1・2は、横須賀線開業120周年とも関連させているんです。ぜひ、定額給付金を使って地元の商店で買い物してくださいという大キャンペーンセールなんですよ。 市内31ある市内商店街のうち27の商店会が参加。参加店店頭にはポスターが貼ってあります。例えば、120円、1200円、1万2000円割り引くなど、お店独自の定額給付金サービスもあります。扱う商品によって異なりますから、一律というわけにはいきませんが、地元で大いに使って下さいということです。(笑) − ところで、小嶋さんが会長をされている鎌倉御成商店街は入口のアーチといい、他の商店街とは一味違いますね。誕生は? 小嶋 御成町はかつて御用邸があり、皇族方が御成になったことが地名の由来とも言われています。 戦後の混乱から再建へと動き出した昭和23年頃、20,30軒の店が集まり、裏駅銀座商店街という名前で誕生しました。当時は物資がなかった時代ですから商店街は大変繁盛したようですよ。昭和43年に事業拡大のため法人化することとなり、鎌倉銀座商店会協同組合となったのですが、57年の町名変更で御成商店街協同組合となり今に至っているわけです。30メートルの小さな商店街ですが、125軒が加入。多少の異動はありますが、空き店舗はひとつもありません。私は昭和37年から会長をやっていますから、もう29年になりますかね。 − すっかりお馴染みとなった家紋旗はいつ頃から。 小嶋 鎌倉ゆかりの源頼朝の旗揚げ以来、幕府に関わりの深い武将の家紋を掲げ鎌倉らしさと商店街の特徴をアピールしていこうということです。 夏の御成ぼんぼり祭り、暮れの売り出しといった大きなイベント始め、催し物がある時に旗を掲げているんです。いざ鎌倉″でいこうということ。最近はちょっとルーズになっているけどね。(笑) 旗は一本一本生地を染め抜いてあり、お金をかけて居るんですよ。観光客も喜んで見ていきますし、記念に写真を撮ったりしています。鎌倉は武士の都、そこに来たなと感じてもらえればうれしいですね。 − ぼんぼり祭りも定着しましたね。 小嶋 八幡様のぼんぼり祭りと違って、うちの商店街は市民から絵を募集し、それをぼんぼりにして店の前に飾ります。7月頃に募集し、毎年380〜400は集まります。応募作晶は全部飾るんです。ですから、常連もいますし、お年寄りから子どもまで幅広いですね。市長賞や県知事賞など表彰し賞品も出ます。自分のぼんぼりが飾られた店からは賞品も出るんですよ。作品をみるため親戚中で来られる方もいますので、客寄せにもなっている。サンバやフラダンスなどのショーもやりますから、賑やかですよ。 − 小嶋さんの商売は? 小嶋 私は商店連合会会長になって10年になります。20年くらい牛乳屋をやっていました。八幡宮や銀座アスターなどにアイスを下ろしたりしていました。牛乳屋は昔はどこの町にも1軒や2軒はありましたけど、スーパーが出てすっかりだめ。いま息子がガーデニングの店をやっていますがね。同じ駅前といっても小町通り商店街とちがって大仏、観音様、海岸までいく御成商店街は観光客もそんなに来ないので落ち着いた商店街なんですよ。 − 小嶋さんにとって鎌倉とは。 小嶋 私は観光協会の仕事もして、全国ほとんどの町に行きましたが、鎌倉ほど好い町はないですね。とにかく緑が多い。ヘリコプターで上空から見るとわかるが、木や森に隠れて人家が見えないほどです。この緑をなくしてはダメ。だって東京から帰ると北鎌倉辺りから空気が違う。ここは海からも塩のにおいがしますしね。これはなんとしても残していかねばね。 − 85才ということですが、元気の秘訣は。 小嶋 そうねえ、自由奔放に生きてきたからかね。(笑)
− 生け花を始められたのは? 栗村 私の若い頃は、生け花とかお茶は結婚前に身につけるべき日本女性のたしなみとされていました。母も親戚も皆華道をやっておりましたので、当然のこととして、私も10代から始めました。 − 生け花の魅力というと。 栗村 生けるお花そのものが生命力に溢れております。自分自身の感覚でそのようなお花、草木を使い一つの世界を表現することでしょうか。とくに小原流は、野の花を大切にしますから、季節美を生けるということになります。私は、生け花は総合芸術だと思うんです。 その人の内面の絵心、色彩感覚、リズム感などが総合されて生け花に反映されていく。流派により基本は異なっても、表現される作品はそれぞれ個性が出ますからね。 − その生け花の国際化にも早くから取り組んでこられました。 栗村 結婚してからですね。子どもがいませんから、生涯貫く仕事は何だろうと振り返ってみたのです。私は英請が大好きでしたから、英語と華道を結びつけたお仕事がそれではと思い、今日までずっとその道を歩いてまいりました。 いけばなインターナショナルは社団法人で外務省管轄ですが、外務省の方は日本に本部があり、海外で広く活動されている組織はいけばなだけだとおっしゃいました。 発祥が日本だということと、家元制度があるためでしょうが、誇りですね。生け花は日本では多少下火ですが、海外ではすごいですよ、爆発的に広まっています。IKEBANA″もIEMOTO″も国際語となっていますから。 − とはいっても国によって素材も異なりますよね。 栗村 そうなんです。やはりその国に生える花や草木を使わないと生けられません。暑い国はお花もあまりない。そこで、海岸に打 ち上げられる流木を使いアブストラクト的な生け花をなさいますし、亜熱帯ではサボテンなども使われます。逆に海外で大会がある時は、日本の花材を飛行機で運び、日本の生け花を披露するんですよ。 毎年11月に高徳院・鎌倉大仏殿でかまくら国際交流フェスティバルが開かれ、小原流若樹会も最初から参加しております。式典のオープニングセレモニーで大仏様へ献花するのですが、この時は巨大サイズのお花もデモンストレーションします。大仏様は外国の観光客も大勢訪れますから、ワークショップで花卉とお花を揃えおけいこをすると、外国の方々も皆さん大喜びですよ。 − 国際ソロプチミスト鎌倉は? 栗村 ソロプチミストというのは、女性のロータリークラブで、奉仕活動団体なんです。人権・女性の地位向上や教育など7つのプログラムがあり、特に、青少年の国際化やリーダーシップを発揮できる大人となるお手伝いに力を入れています。青少年を「明日の市民」ととらえているんですね。今年は、高校生対象に「私たちが守る緑の地球」というテーマで論文を募集し、ユースフォーラムでの討論会なども行っています。 実は、国際ソロプチミスト鎌倉の初代会長が、高徳院の先々代ご住職の奥さんだった佐藤春子さんでした。佐藤さんは「鎌倉は質素がいいのよ」といって華美になることを嫌っておりました。この精神はいまも生きております。 − グローバリズムの時代、海外との交流はますます盛んに。 栗村 そうなんです。この間も鎌倉まつりに韓国安東市から伝統仮面劇が特別参加されました。その歓迎会で安東市で文化的にも高い地位の女性たちが、鎌倉市の女性達と交流を図りたいと市長に要望されたのですね。明日帰国という前日で、突然のことでしょう。そこで私に電話がきたのです。それではと何人かのソロプチミストに電話し、翌朝市役所で懇親会を持ちました。短い時間でしたが、皆さん喜ばれましてね。その時、私は花車に有田焼の花卉を使い、安東市の市花のシャクヤクを華やかに生けて飾ったのです。これも喜ばれ、皆さんで記念撮影もいたしました。 国際交流というのは、このようなことの積み重ねなんですね。伝統的生け花を次世代に伝え、また海外にも広めて、交流が深まる。 その喜びは何にも代え難いと本当に思います。
− 4月16日に「蝶の標本展」を開かれますね。鎌倉の野山はよく歩かれるのですか。 原田 ここ(手広)に越してきて30年になりますが、この近辺をネットを持って歩くことはほとんどないですね。ですから私が蝶の研究をしているなんて近所の方はあまり知りません。今回の標本展も、たまたま私が庭木に袋を架けて幼虫を飼っているのを近所の方が関心を持たれ実現したということです。 − 蝶の研究に携わるようになったのは。 原田 私は横浜の伊勢佐木町に生まれ、妙蓮寺で育ったのですが、戦後から昭和30年代頃は、山と田畑がずっと広がり、今の新横浜駅あたりも水田地帯。日本の国蝶であるオオムラサキもいっぱい飛んでいて、子供たちが網を持って野山を駆けずり回っていました。わが家の隣に住む医大生が蝶に興味をもっていて、私も感化を受けましてね。エサを換えたり、採集のお供をしたりお手伝いをしていた。それ以来ずっと蝶を追いかけて60年になりますね。(笑) その頃、鎌倉警察署の裏に日本の蝶界の大御所・磐瀬太郎先生が住んでおられ学生達が集まっては蝶の話に夢中でした。隣に住んでいた養老孟司先生も中学生の頃からメンバーの一人でしたね。私は養老さんより4つ年下なので、まだ仲間に入れてもらえませんでしたけど…。 この間、学士会館で磐瀬先生を偲び50年ぶりに鎌倉蝶話会が開かれ、文通でやりとりしていた方と50年目に名刺交換したりしました。皆さん70代、80代なのに、いまだ蝶を追いかけている。話がはずんで楽しかったですね。 − まさに、蝶の研究一筋……。 原田 いえ。私は絵も好きで、多摩美大に入ってパッケージデザインを専攻してきました。でも、蝶に夢中で、卒業式の日もフィリピンのルソン島で蝶を追いかけていて、卒業証書を受け取りに行ったのは親父なんです。ルソン島には日本のアゲハチョウの祖先型がい.るのですが、その時私が捕った大型のアゲハチョウが新種だったのです。ふるえましたね。昭和39年、新聞にも紹介されました。 − 蝶の魅力は? 原田 美しさもありますが、生態の面白さですね。蝶とはいえ私の興味は毛虫なんです。成虫よりも興味の対象は幼虫が主体。毛虫の毛の数が何本だとか、形がどうとか、こんな研究は世界でも非常に少ないのです。 − どうして毛虫に。 原田 例えば、鯨、犬、豚、人間は噛乳類ですから、原始的な幼生期は皆おたまじゃくしや勾玉のような格好をして同じです。それなのに成長とともに違う形になる。蝶も同じでしてね。顕微鏡の世界なんです。ですから、皆が網で蝶を追いかけているとき、私は草花や木の枝を探している。まあ、異端児なんですよ。(笑) − ところで、蝶というのは何種類くらいいるのですか。 原田 世界で約1万8千種類。日本には約250種類ですね。その数は正確にはわかっていません。鎌倉で見られる蝶は50種類位ですね。 − 地球温暖化の影響は? 原田 それは感じますね。絶滅した種類もずいぶんあります。子供の頃、鹿児島から送ってもらった関東では見られない蝶が今はこの近辺を飛んでいますしね。台湾にも大陸の蝶が現れたり、これは世界的な現象のようですよ。 − 海外にもよく行かれる? 原田 1年に2回、多い年は4回は行きます。学生の頃は1963年に日本鱗翅学会主催で蝶と蛾を調査する探検隊に加わり、世界第3位のカンチェンジュンガ峰の標高5千メートル位を約3ケ月歩き回ったことがあります。今年も、広東省の華南農業大学と共同研究のため、8月に中国に行きます。 − まさに蝶三昧″ですね。 原田 楽しくてしょうがない。でも家族には犠牲を強いていましてね。やくざな亭主ですよ。(笑)
− 「武家の古都・鎌倉」の世界遺産登録支援のために「鎌倉世界遺産登録推進協議会」が散華を発売しましたが、その原画を描かれました。 平松 散華は鎌倉ではあまり馴染みはないようですが、京都、奈良などのお寺ではよく撒かれますね。私も法隆寺などで散華を描いたことがあります。でも、西の方はあでやか、華やかですが、鎌倉は武士の町。雅やかな公家の文化とは違い、質実剛健の気風があります。そこで、鎌倉の武家文化を想いつつ、清らかさ、実直さをテーマにし、鎌倉は木に咲く花が似合う町ということもあって梅、桜を描きました。 − 鎌倉にお住まいになったのは。 平松 もうではなく、まだ18年目ですね。(笑) もともと私は東京生まれなんですが 父親の転勤で名古屋に移り、そこで育ちました。父母が他界したこともあり、こちらに越してきたのです。 鎌倉は東京新聞の連載小説「関東太平記」の挿絵の取材で何度か訪れていて、歴史のある町、山の緑が守られいい町だなと思っていました。この山が絵を描くモデルになるんです。私が好きな花も多いですしね。それに、観光客など訪れる人が多いのに騒がしさがない。集中して仕事をするにはいいところなんですよ。 − 平松さんは日本画界では無所属。30代に公募展を経て「横の会」に参加するなど異才と呼ばれています。 平松 日本画は明治以降、美術院など団体に入り塾などで鍛錬する、それが伝統でした。それも必要かも知れないが、近代的で民主的な、もっと伸びやかな中で絵を描いていこうと、会派を超えて仲間が集まり創ったのが「横の会」なのです。このままでは西洋画に飲み込まれてしまう、取り残されてしまうという危機感もあったし、レジスタンスでもありました。若かったですね。 − 路シリーズはその中から始まった。 平松 権威主義とか、本来の芸術的評価ではなく人為的評価といった不自然な関係から歴史が作られることへの反発があって、30代の始め頃からほぼ20年間続けて描いてきました。この間の作品も、1000点は超えていると思いますね。 道ではなく路としたのは、心の通い合える路の方が私には合っている。 最初は自らの心の空虚を表現する厳しい異国の冬の風景などを。40代は木曽や美濃など山中の路、そして日本人の歩いてきた路ということで、朝鮮半島、中国、インドへとルートを遡って描いてきたのですが、50歳で路シリーズは一応ピリオドを打ちました。 それからは、セザンヌ、モネ、ゴッホなどヨーロッパの画家達が始めたジャポニズムの運動を検証してきました。 − そして今は月刊誌「文藝春秋」の表紙画、これも大変な仕事ですね。 平松 戦後、同誌の表紙画を描いて来られたのは安井曾太郎、杉山寧、高山辰雄の先生方で、その後を私にというのでしょう。まさかと思いました。それが今年で10年目。自由にやらせてもらっています。 でも、穴を開けるわけにはいきません。不治の病や交通事故なに遭遇するとも限りませんからね。そこで、毎月2点ずつ描き、1点は町立湯河原美術館「平松礼二美術館」でご覧いただけるようにしています。 − これからも様々な挑戦を? 平松 そうですね。人間が絵描きになったわけで、まず人間が先にある。そのアイデンティティを大事にし、社会的になんらかの貢献をしたい。 鎌倉には絵の世界、文学の世界等々の大先輩がいっぱいいます。 緑も多いし、環境もすばらしい。世界遺産登録にしても、鎌倉に住む人たちがどのように貢献できるかですね。私も微力を尽くせたらと思っております。