− 数ある楽器の中でフルートを選ばれたのは? 吉川 小学校4年で習ったリコーダ、それが笛との最初の出合いで、リコーダを吹いて通学していました。フルートは卒業の時に買ってもらったのです。 優しく爽やかで力強いフルートの音は私の心に響き、耳にする音をフルートの旋律に置き換えて味わい楽しむことのできるこの楽器に魅せられてしまいました。それに、ジャンルを超えて様々な挑戦ができるのも魅力ですね。 − レパートリーが広いのは、そのチャレンジ精神から? 吉川 フルートのオリジナル曲以外にも、ピァノコンチェルトやバイオリンコンチェルトにも挑戦しています。6月発売の新譜には、クラッシックの運命や新世界など、皆さんもよくご存じの曲をボサノバやタンゴにァレンジしフルートで演奏してみました。ビブラフォンや打楽器など他の楽器とのコラボやオルゴールとジョイントしたり、いろいろやっています。(笑)この新譜CDには、斉藤栄さんの小説「湘南太平記」に曲をつけさせてもらいました。私にとっては初めての作曲なんです。 − そして、ユニークな活動の一つがマタニティーコンサート。 吉川 はい。もう20年になります。私は世界の子守歌を集めたり、音と心理にも興味を持っています。フルートは女性の音域に近いこともあり、妊娠中の方とお腹の中の赤ちゃんとの思い出の音や音楽を持っていただけたらという願いを込めたリラックスタイムの演出としてのコンサートを始めました。コンサートはもちろん、フルートを見るのも聞くのも初めてとか、クラッシックは苦手という人もいます。そこで、作曲家や作品のエピソードを紹介しながら演奏しています。 − 反応はいかがでしたか。 吉川 トークを交え、また様々な楽曲をひとつのプログラム構成としたコンサートはその頃余りなかったので喜ばれました。でも、しゃべるときは左脳、演奏は右脳を使います。また、呼吸法が違うのです。初めは私の方が戸惑ったりでしたけど(笑)。それがもう20年。私の曲を聴いて産まれた子に巡り会うことも度々あります。最初にお腹の中で聴いてくれた子がもう20歳なんです。私の今の夢は、親子三代で楽しんでもらえるコンサートを開くことなんです。 − 演奏する場所も様々ですね。 吉川 音楽はコンサートホールで聴くだけではないと思うのですよ。さまざまな建物とのコラボも演奏の楽しみなんです。鎌倉では鎌倉文学館や建長寺などの寺院、旧華頂宮邸などさまざまなところで演奏しています。演奏というのは空気の振動で聴く人の耳に伝わります。そんな空間の楽しみ方も生演奏の醍醐味なんです。 建長寺の法塔では、打合せの時は非常にいいお天気で、手を叩くと天井の龍の絵からカンと音が返ってきて、残響も素晴らしいと喜んでいたんです。ところが本番の前日が大雨。木造の建物ですから水分を吸い、空気も重くなって、龍が音を全部飲み込んでしまったようでした。でも、小さな窓を見ると、フルートの音に誘われるかのように鳥がたくさん寄ってきてさえずり始めたのです。まるで私の演奏と共演しているかのように。フルートと鳥と天井の龍とのコラボ、心に残る演奏会のひとつです。 − ところで、11月に障害者施設等を運営するラファエル会を支援するチャリティーコンサートに出演されますね。 吉川 はい。ラファエル会は学生時代から存じあげております。健常者も障害者も助け合えるそんな優しい街がいいですね。 コンサートではギターの千代正行さんと、ドボルザークの新世界などクラッシックからポピュラー、大河ドラマ「篤姫」、私の「湘南太平記」も演奏します。楽しい 一夜を過ごしていただければ嬉しいですね。
おいくつになられましたか。 内藤 大正6(1917)年生まれ、今年の9月で91歳。いい歳ですよ。(笑) −鎌倉では最高齢のお医者さん? 内藤 現役の医者では私が最高齢ですね。
− 高齢で現役、その秘訣は? 内藤 それはありません。私は「健全な精神は健全な肉体に宿る」と小学校時代から徹底的に教え込まれてきましたが、肉体を鍛えればいいというものでもない。 際して体力を要する仕事は高齢けなると出来なくなる、衰えるのも早い。 それに比べ、知的職業は長命ですね。その筆頭格が神官・僧侶や絵描きさん。比較的自分のペ−スで仕事ができるからです。逆に、知的職業でも短命は医師や弁護士です。作家も余り長生きしない。なぜかというと、自分のペ−スで仕事ができない、請負仕事なんですよ。作家なども締切に追われる。医者も、患者があれば食事半ばでも救急に応じなければなりません。私も、ここで開業した頃は、午前中の診療が夕方5時までかかるというのは当り前でしたから。でも、いまは暇、診療も午前中だけです。今では内藤洋子(女優)の親父ですよといわないとわかってもらえませんから。(笑) でも、よくオレは100まで生きるんと豪語して、冷水摩擦やらさまざまな健康法をやっている人で、90歳まで生きた人はあまりいません。 無理するのはよくないですね。天然自然がいい。逆に、「健全な肉体は健全な精神に宿る」というべきなのでしょうね。一番必要なのは気力・意欲です。
− 好奇心旺盛がいい。 内藤 好奇心が強いというのは、医学が本当の科学とは違って生活がついてまわる人間相手の臨床的な学問だからです。医学はどんどん変わりますし、その都度文献を読んだり、情報を得ないとついていけない。医者には免許皆伝が絶対無い。ということは、好奇心の強い人にはいつでもフレッシュな職業で、まだ現役だという自信にもつながるんです。 元来私は凝る方でね。歌舞伎は昭和12年、菊吉の全盛時代から見ています。去年はi3回も足を運びました。謡、鼓も大先生に習い、今も謡は弟子に教えています。俳句もやりますし、園芸、金魚も長いですね。 でも、聖路加国際病院理事長の日野原重明先生には驚きます。プラス思考のお手本ですよ。2年前の95歳時の著書に、階段を一つおきに上がると書いてあった。娘の洋子夫妻が先生宅を訪れた時も、夜の10時、11時になるからお暇しようとしても帰してもらえず、午前2時頃まで話をお聞きしてきたと言っていました。私に言わせれば怪物ですね。
− ところでここ(大町)に開業されて何年になりますか。 内藤 もう50年ですね。叔父から「悌よ、家が長いこと空いているので来ないか」と言われましてね。当時、清瀬に住んでいましたが、女房も当時流行の鎌倉夫人に憧れていたので、喜んで引っ越してきました。 かつてここは牡丹屋敷といわれ、歌人の木下利玄が住んでいたところ。鎌倉には文士が多く住んでいて、その住まいの跡も次々わからなくなっている。そこで、小島寅雄さんが市長のときに、文士の住居跡を示すプレ−トを作ったらどうかと提案し、ここも木下利玄屋敷跡にといったら、大賛成、やりましょうといってくれたのですが、結局実現しませんでした。残念でしたね。
− 今も町をバイクで走っているそうで、まだまだ元気。鎌倉の怪物ですね。 内藤 いやいや。バイクに乗るのは、深部静脈血栓でヨタヨタ歩きになったからなんです。それに、耳が遠くなっています。聴診器も最近は高性能の電気聴診器に頼っています。この間、高齢者運転講習に行き、目の検査をしたら、検査官にこの次の検査は落第しますよといわれました。あちこち悪い。 孫のミニダックスフンドを連れ散歩に行っても、ワン公にまでヨタヨタを読まれているんですから…。私は、日野原先生のようにはいきませんね。(笑)
− 鎌倉良寛会は今年が20周年ということですが。 山崎 そうなんです。1987年に小島寅雄先生(元鎌倉市長)を中心に設立されました。その経緯は、全国良寛会を設立された元北陸銀行頭取の近藤敬四郎さんが、稲村ヶ崎住んでおられ、小島先生に鎌倉にもぜひ良寛会をつくりましょうと呼びかけられ生まれたとい うことです。小島先生は“今良寛”といわれるほどの人格者でしたし、良寛さんの五合庵にちなんで、自らのお住まいを二合庵と呼んでいたほどですからね。 − そこに山崎さんも参加された。 山崎 私と小島先生との出会いはまさに“縁”(えにし)というほかないですね。市長になるまで先生はずっと教育者として活動されてきました。昭和20年代に、綴り方教室があちこちに生まれ、子供達と裸でぶつかり合う、そんな教育をしようと鎌倉作文の会を作られた。私もその活動に加わって以来のおつきあいです。鎌倉良寛会ももちろん創立から参加していますし、会報「浄心」の編集もずっとやってきました。 − 良寛のどこに魅かれるのでしょう。 山崎 ごく自然に人を惹きつける、素直さ、正直さ、飾らないところでしょうね。愛をもって接する心だと思います。良寛さんはどちらかというと内気で、人との交わりは苦手、不満や苦しみも自分自身の心の中で解決していく、そんな人だと思いますね。その生涯も、父母を捨て、故郷を捨て、円通寺で修行し、庵を捨てるというように、捨てることから始まっています。 − 安逸を恐れるということですか。 山崎 そう思います。寺を捨て、乞食となったのも檀家があってお供え物があると苦しみを得ない生活になる。その恐ろしさを知っているからこそ、素になることを選ばれたのでしょうね。 私が小島さんから教わったのも「素をもって良しとする」ということで、年を重ねるにしたがいその奥深さがわかってきました。 − たとえばどんな・・・。 山崎 小島先生は校長であろうが市長であろうが、いつもと変わらない。人間と人間の関係を大事にされていましたね。 教員生活の初めが横浜の川上小学校でしたが、教壇に立っていると、いつも居眠りをする生徒がいる。そこで理由を聞いたら、朝、新聞配達をしているのだという。先生はそれを聞いて、夏休みに自分も新聞配達の仕事をしたということです。後に、教壇に立って教える立場で物を言っていたが、教わる子供の立場を知ったと言っておりました。これは、先生の哲学だと思いますね。良寛さんもそうではなかったかと思います。また、第二小学校校長の時、学校が全焼してしまった。その時も、子供の学ぶ機会を奪ってはいけないと、市中のお寺に頼み、何年何組はどこのお寺というように生徒の教室を確保したんです。そして、一軒一軒家庭訪問し、お詫びして廻ったんですね。 市長になっても、市長室のドアは常にオープン、昼食も菓子パン2個に牛乳でいいという人でした。 − 小島先生が亡くなられて、山崎さんが良寛会会長となられもう6年になるんですね。 山崎 はい。いま、「浄心」の20周年特集号をつくっているところで、10月21日に先生のお墓にお供えしようと思っています。 − 20周年にちなんでなにか行事は。 山崎 とくにありません。現在会員は38名。これまで偶数月に勉強会を行ってきましたが、会員の中から子育てに苦労し、悩んでいるお母さんたちに何かお助けできないものかといった意見も出ています。最近の世の中は、あまりに悲惨な事件が多いでしょう。崩壊しつつある家庭、地域の再構築を皆で取り組んでいかなければなりません。私は長らく民生児童委員をしておりますが、支え合うシステムづくりをしようと、地元の腰越地域の皆さんと高齢者への配食サービスなど、試行錯誤して取り組んでいます。良寛会も高齢化していますが、良寛さんの心をもって良寛会なりの活動を考えていきたいなと思っています。
− 中国に行かれたそうですが。 船橋 日中国交正常化35周年の文化スポーツ交流記念事業として、貴州省で画家の石塚健さんが描かれた「貴州友好桜」200号の絵の贈呈除幕式を奉仕します。日本古来の伝統文化である神道による祈りと現地のミャオ族による祈りを一緒に行ないますが、中国政府が公式の場で文化として神事を認められたのは始めてのようです。 − 来年は鎌倉宮の祭神護良親王の御生誕700年ということですが、この秋(10月10日)は予祝行事として錦織健さんを迎え、「杜のチャリティコンサート」を開催されますね。 船橋 はい。鎌倉薪能は昭和34年から行っており、今年も10月8日、9日に開催されます。薪能の終わった翌日行うことにいたしました。夜間行いますので、舞台をライトアップしていますが、バーッと光が突き刺さってバックの森が映えるんですよ。舞台の左手からは虫がすだき、空には月が出ている。ある時、700年の行事を考えていたら、ふと、この舞台で“荒城の月”を歌っていただけたらいいなと思いましてね。それが錦織健さんのコンサートとなったわけなんです。 − 夏の朝顔市も好評でした。 船橋 20年ほど前に鎌倉駅前で朝顔市が開かれたんですが、これは1回で終わってしまい、残念に思っていました。その思いと福祉関係で何かして差し上げる事はないだろうかという思いが重なり、福祉施設の方々に朝顔をつくってもらえないだろうかと思い、社会福祉協議会にご相談したらやりましょうということで3年前からスタートしました。 第1回目の時に、ある知的障害を持つ2人の子供さんが朝顔を市に出すという朝、咲き始めた朝顔に向かって手を合わせていたというんですよ。それを目にした所長さんは、涙が止まらなかった、こんなに感動したことは初めてですとおっしゃっていましたね。昨年は、5鉢ずつ育てられた10人のおばあちゃんが、朝顔市に出すというと「もっていかないで」と嫌がったそうです。すると、市の初日にタクシーが2台入ってきましてね、そこから10人のおばあちゃんが降りてきて、自分たちがつくった朝顔を1鉢ずつ買い戻していかれたんですよ。きっといとおしくなったのですね。 このような話を聞くと、やってよかったなと思いますね。朝顔市では1千鉢を売るのですが、完売します。その売り上げは、翌年の種と鉢の代金を差し引いて、全部福祉施設の方に還元しております。 − 代々神職をされておられるのですか。 船橋 祖父と父が笠間稲荷神社にお勤めしていたんですが、父からおまえは神職になりなさいと言われ、半ば強制的に國學院大學に進まされましてね。私は学校の先生になればいいという気持ちだったんです。(笑) ところが、東京の浜町の笠間稲荷神社分社でお手伝いをしたとき、千葉県市川から来られたおばあちゃんが、お賽銭を上げて、息子の事業が心配でおみくじを引いている。私はフッと気持ちが動き、お参りの場所にお連れして、そこでお祓いと御神酒をさしあげたんです。おばあちゃんは、「ありがとうございました」と涙を流されて帰っていかれた。私もジーンときましてね。また、ある紳士にも同じようにして差し上げたら、60年間門松をくぐってお参りしているがこんなすがすがしい正月を迎えたのは初めてだと言われた。この2つの経験から、これほど共感できる職業はないと、それから神職をめざして勉強し始めたのです。 − 鎌倉宮の宮司になられたのは。 船橋 私が14代で、今年で5年になります。鎌倉に住むようになって40年になりますが、鎌倉というのは原風景が残っている町なんですね。原風景に出合うと心が落ち着くんです。ですから私は皆様には、車で来てはだめです。日帰りであれば午前中1ヵ所、午後1ヵ所のつもりでゆっくり、ゆったりと歩いてくださいと申し上げているんです。一度にあちこち廻っては何にも印象に残りませんからね。