鎌倉生活 2009年12月10日号 1ページ  
 
   武家の古都の鎌倉世界遺産登録に向けての連続シンポジウムが、12月5日、北鎌倉の東慶寺で行われた。また、11月22日には、玉縄城築城500年祭実行委員会の発会式と記念講演会が、清泉女学院中学高等学校講堂で開催された。地域のまちづくり運動は元気だ。

 北鎌倉の文化資産と周辺のまちづくり 
 東慶寺でパネルディスカッション 
 「北鎌倉のまち 明日のビジョン」 

 パネルディス.カッションの会場は東慶寺。「北鎌倉のまち 明日のビジョン」と題し、北鎌倉まちづくり協議会代表・坂田庄次氏、北鎌倉の精進・懐石料理の店「鉢の木」主人・藤川譲治氏、建築家・守屋弓男氏、鎌倉市都市景観課課長・比留間明氏をパネリストに、東北芸術工科大学准教授・志村直愛氏の司会で行われた。
 「鎌倉の玄関口北鎌倉は地名ではなく駅名なのにあちこちで使われているように、一つのステータスとなっているのがこの地区。これまでマンション問題で提言したり、都市計画法では景観地区の建物の高さ15mを、北鎌倉東地区は12mに変更させた。これは、鎌倉では唯一、全国でも例がないこと。現在、洞門山開発反対に取り組んでいる。努力していかないと風情ある街並は生まれない」と坂田氏。
 比留間氏は「鎌倉の街並は近代の別荘文化によって生まれた。それはもてなす心。鎌倉は観光客が増えその文化が次第になくなりつつあるが、北鎌倉にはもてなす心が商店や住民にもあり、それが人気の元ではないか」。
 「黒塀で囲まれた料理屋ではなく、塀を一切造らず自然と一体となった建物にしようと、北鎌倉支店を建設した。古くはなっても、古臭くならない、それが老舗では」と藤川氏。
 「クルマ社会が衰え、かつて自然に親しんだ生活に戻ると思う。日本は、石の文化と違い木の文化。それはリサイクル文化だ。鎌倉にはプロトタイプがないので挑戦していかないといけない。
100年受け継いでいける建築(世代間建築)を」と守屋氏。
 最後に志村氏が、「歴史の継承はコピーすることではなく、昔を知り、その良さを伝えていくことでは」と結んだ。

 玉縄城築城500年祭実行委員会発会式 
玉縄城は最前線の軍事拠点
 3年後の500年祭に向けさまざまなプログラムも 

 平成以年に築城500年を迎える玉縄城を記念し、築城500年祭″を目指す実行委員会の発会式が、かつての本丸があった清泉女学院中学高等学校講堂行われた。発会式、清泉女学院中学高等学校管弦楽部の演奏会式典等の後、「後北条一族の戦さと暮らし」と題し、神奈川県立歴史博物館専門学芸員・鳥居和郎氏の講演。次いで、「武家の古都・鎌倉に後北条が遺したもの」と題するシンポジウムが開催された。
 パネラーは、鳥居氏、小田原市教育委員会学芸員の山口博氏、青山学院大学講師の真鍋淳哉氏で、司会が鎌倉考古学研究所監事の伊藤一美氏。
 小田原北条から見た玉縄城は最前線の軍事拠点。難攻不落の城といわれた。玉縄北条は忠実な戦争遂行部隊で、三浦、武蔵国を統括。対岸の房総半島と対時する水軍を統括する城だった。一方、和歌にもすぐれ、蹴鞠、絵画もたしなむ文武両道の武将だったという。
 主催の玉縄城址まちづくり会議は、16世紀、鎌倉の主役は「後北条の玉縄」で、その玉縄の歴史と自然の魅力を再発見しようと活動を続けてきた。500年祭に向け今後さまざまなプログラムを用意し、まちづくりに取り組んでいく方針だ。だ。

 
 
 
     
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